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ラノで読む 心地いい日が差し込む休日の朝。洗濯物を干し終えた夏目《なつめ》晶子《あきこ》は、ちょっと休憩と家事の合間にテレビを見ていた。そよそよと窓から入ってくる温かな風が彼女の長くて細い髪を揺らしている。 「は~。幸せだわ~」 こうしてお煎餅をぽりぽりと食べながらアパートの自室で家事をしたりのんびりとしていることが、晶子の休日の楽しみ方だった。今は一緒に暮らしている弟が出かけているので掃除をするのには丁度いい。 『最近は訪問販売を装った強盗という手口が全国的に流行っているので、みなさんお気をつけて休日をお過ごしください』 という言葉でテレビの中の女子アナはニュースを締め、星座占いへと番組は移行した。その星座型占いが最下位だったのにも関わらず、晶子は落ち込むどころか機嫌よく笑っている。 「うふふふ。『蟹座の人は今日とんでもない出会いがあるので部屋の扉を開けないようにしましょう。開けたら刺されるかも』だって。なんだろうとんでもない出会いって。楽しみだわ」 きっと今日は楽しいことがあるに違いないだろうと、晶子は朗らかな顔で呟いた。 晶子にとって、星占いが最下位だろうが最上位だろうが関係ない。目に映るものがすべて幸福に見え、不幸なことも不運なことも晶子にとっては無いも同然であった。 そうして煎餅をバリボリと頬張り温かいお茶を飲んでいると、ピンポーンという音が響いてきた。 「あらあらお客さんかしら」 晶子はさっと立ち上がってドアの方へと向かった。 「どなたですかー?」 晶子はドア越しに尋ねた。 「訪問販売に参りましたー」 ちょうどよかった。暇だったから商品を見て見ようかしらと、晶子は目を輝かす。晶子はこうしてたまにやってくる訪問販売が大好きだった。安くて便利なものを勧められてしまうのでいつも買ってしまう。そのせいですぐに生活費が尽きてしまうこともしばしばあった。 いつも買った後反省するのだが、「ノルマをこなさないと首が切られるんです」と泣きながら言われたら断ることなんて晶子にはできず、結局買ってしまうのである。 「今開けますね」 晶子は何の警戒心もなく扉を開けた。 するとそこには世にも奇天烈な男が立っていた。いや、一見しただけでは性別すらわからない。それも仕方がないだろう。 その人物の頭に該当する部分には顔は無く、首から上は巨大な白熱電球であったのだ。 透明な玉の中には確かにフィラメントもあり、根本がどうなっているかわからないが、ネクタイの締められた襟と電球の口金が繋がっている。 +挿絵 「わ、わたくしは強盗だぞコンチクショー! 金を出さないとずぶりと行くぞ!」 しかもこともあろうに電球男は包丁を持って晶子に突きだしていた。だが彼はびびっているのか手どころか体全体が震えている。電球の頭からも冷や汗が流れていた。 だがそんな電球男に恐怖の色や戸惑いの色も一切見せずに、わずかに首をかしげた後、晶子はにっこりと菩薩のような慈愛に満ちた微笑みを向けた。 「あっ、包丁の訪問販売の方ですね。それとも電球かな? とりあえず立ち話もなんですからおあがりください」 ぺこりと頭を下げて「どうぞうどうぞ」と晶子は部屋に電球男を上げようと、手招きをした。 「え? いや、あの。わたくしは強盗……」 電球男は強盗云々をスル―されただ戸惑っていた。予想外の反応に完全に思考が停止してしまったのか、どうしたらいいのかわからず立ち尽くしている。 「セールスマンさーん。どうぞここ座布団ありますから座ってください。お茶煎れなおしますから飲んでくださいね」 「え? お? ん? あ――……はい」 混乱しているのか、電球男は晶子に言われるままに玄関を上がり、包丁を手にしたまま座布団の上へと腰を下ろしてしまった。 「な、何をやってるんだわたくしは……」 電球男は一人虚しそうに呟いたが、晶子は気にも留めずにお茶を来客用の湯飲みに煎れ、とっておきの塩豆大福を運んだ。 「どうぞ。朝からお仕事お疲れ様です」 ことり、と熱々のお茶とおいしい大福を置いたが、電球男には口もついていない。食べられるわけがなかった。 「…………」 「どうしたんですか? お嫌いでした? それともお腹痛いのかしら。困ったわ、正露丸どこやったからしら」 押し黙ってぷるぷると震えている電球男を心配した晶子は、ドタバタと狭い部屋内を右往左往し、クスリを探した。 「う、うう。うわああああん。ごめんなさい!」 だが何を思ったのか、突然電球男は晶子に土下座をして謝った。電球が大きくて畳に当たってしまうため、ちょっと不恰好である。 「強盗なんてほんの出来心だったんです。それでまさかこんな手厚い歓迎を受けるなんて思ってもいなくて……他人に優しくされたのなんてもう何十年ぶりか……」 おいおいおいと目も無い癖に電球男は号泣し始めた。なぜ泣いているのかさっぱりわからないが、晶子はそっと彼の冷たく透明な頭に触れ、軽く撫でてやる。 「泣かないで電球さん。何かあったなら私がお話を聞くわ」 「うう……あなたは天使のような人だ!」 電球男が顔を上げると、彼の頭に灯りがぱっと点いて、ランランと輝き始めた。あまりの眩しさに「きゃっ」と晶子は目を瞑ってしまった。 「ああ、ごめんなさい。わたくし興奮してしまうと電気が点いてしまうんです。待ってください、今落ち着きますから」 ふーっと深く深呼吸すると電球男の灯りはふっと消えた。あのまま光り続けたら目なんて開けられないだろう。 「すごく便利ですね」 「いやあ。不便なだけですよ。あっ、そういえば自己紹介がまだでしたね。わたくしこういうものです」 電球男は胸ポケットから名刺を取り出してそっとちゃぶ台の上に置いた。そこには彼の名が書かれている。 「夜戸川《よどがわ》乱腐《らんぷ》さんっていうんですか。あらすごい。小説家なんですね。サインもらっちゃおうかな」 「いやあ。わたくしのサインなんてなんの価値もありませんよ。わたくしめのことは気軽にランプと呼んで下さい」 「あ、私、夏目晶子です」 ぺこりと晶子も頭を下げて自己紹介した。 電球男ことランプ氏は、「これせめてものお詫びです」と懐から自分の小説を取り出した。『怪奇、エログロ絞殺魔』や『団地妻解体事件』に『轢死体調理屋』など悪趣味なタイトルと表紙絵がついた本である。恐らく内容もろくでもないだろう。 「すごいですね。こんなに出してるんですか」 「まあ売れ行きは芳しくないですが、ほそぼそと生計を立てています。ですが、とある事情でわたくしの原稿代も印税もすべてわたくしの懐から旅立ってしまうのです」 「まあ。いったいどんなことがあったんですか」 晶子はランプ氏の語り口にすっかり同情してしまい、ハンカチを取り出して溢れ出る涙を抑えていた。 「実はわたくしには恋焦がれる女性がいるんです」 「まあ」 晶子はぽっと顔を赤らめる。十八にもなって恋愛ごとの一つも無かった晶子には、少し新鮮な話だ。 「わたくしの想い人は雪姫《ゆきひめ》さんと言って、雪女の一族であり肌も心も冷たい女性です。わたくしは彼女のそんなところを好きになったのでありますが、どうにも彼女はわたくしのことなど眼中にないようなんです」 「それはお辛いですね」 「ちょっとでも彼女に振り向いてもらおうと、わたくしはあの手この手を尽しました。ブランド物のバッグや服を買ってあげたり、高価なアクセサリーも買ってあげました。貴重なコンサートチケットをプレゼントしても彼女は他のボーイフレンドとコンサートに行ってしまう始末です」 「そんな、きっと彼女は照れてるんじゃないのかしら」 「いいえ。わたくしにはわかります。彼女からすればわたくしなど路傍の石も同然。ですがそれでも彼女に振り向いてもらうためにもっと、もっとたくさんお金を使いました。彼女のお店に行ったら毎回必ず彼女を指名します。ですが、わたくしはもとより売れない作家です。お金なんてすぐに底を尽きました」 大げさに身振り手振りで絶望を表現していたランプ氏は、突然また意気消沈してへたり込んでしまった。 「それからわたくしは、雪姫さんにプレゼントをあげるために自分の身の回りのものを質屋に売りました。ですがそれだけではまったく足りず困っている時、通りすがりの魔女が『お前の頭を買い取ってやる』と言ってきたのです。わたくしは喜んで頭を魔女に売りました。すると魔女は頭の代わりにと、この電球をわたくしの頭に差したというわけです」 「それでランプさんはそんな素敵な頭になったんですね」 ぽんっと晶子は納得したように手を打った。だがランプ氏は深い溜め息をつきながら肩を落とす。 「ですがこの頭になったせいで余計に雪姫さんはわたくしから距離を取るようになりました。だからわたくしは頭を売ったお金でもっともっと高価な物をプレゼントし続けたのです。とうとう売る物が尽きたわたくしは借金に手を出しました。そこから今の状態に転がり落ちるのは実に簡単でした。今はもう利息も払えず借金が膨れ上がっていくだけです」 「うう。ランプさん可哀想……」 晶子はバリボリと煎餅を食べながらランプ氏の話に同情した。好きな人に振り向いてもらうために努力しても報われないというのは、きっと悲しい。 「それで今日が借金返済の日なんですが、お金なんて持っているわけもなく。だからテレビを見てわたくしも強盗をしようと、この家を尋ねたんです。ですがあなたの優しさに触れ、目が覚めました」 ごーとー? セールスマンじゃなかったのかしら、あれ? 小説家なんだっけ? と晶子はクエスチョンマークをたくさん頭に浮かべた。彼女の辞書に強盗の文字は無い。 だがランプ氏がお金に困っていることは解った。しかし残念ながらこの家にもお金は無いのだ。あったらこんなぼろアパートで暮らしてはいない。 「ごめんなさい。私じゃお力になれなくて」 「いえいいんです。お気になさらないで晶子さん。全部わたくしめの自業自得です」 ランプ氏が溜息をつくと、カンカンカンというアパートの錆びた階段を荒々しく昇ってくる音が聞こえてきた。その足音にランプ氏はびくっと身を竦める。 「おいランプ! こっちに逃げてきたのはわかっているんだ! さっさと借金を返すか死ぬか選んだらどうなんだ!」 ドスのきいた怒声が響き渡る。声と足音はどんどんと部屋へと近づいてきた。 「……奴らだ」 「え?」 「借金取りですよ。わたくしを双葉湾に沈めに来たんだ!」 「シャッキン鳥ってどんな声で鳴く鳥さんかしら。きっとシャッキン、シャッキンと鳴くのね」 晶子は小首を傾げて空想を広げている。 「何を言ってるんですか晶子さん。ああ、どうしよう。ここにいるのがバレたんだ!」 あわあわと、ランプ氏はちゃぶ台の下に隠れようとするが、電球が引っかかってもぐりこめもしない。 「この部屋に入って行ったのは見えたんだ! とっととここを開けないとぶち破るぞ!」 借金取りたちはドンドンと部屋の扉を叩いた。「あら、お客さんだわ」と晶子は扉を開けようとしたが、ランプ氏は晶子を制止する。 「やめてください。あいつらは恐ろしいんです。晶子さんが扉を開けた瞬間、あいつらの顔を見て気絶してしまいますよ!」「 「いやねランプさん。脅かさないでくださいよー。うふふ。この世の中に怖い人なんかいるわけないじゃないですか」 晶子はにこやかにしながらそっと鍵穴から扉の向こうの人物を見た。 そこにはグロテスクな怪物二人が立っていた。片方はいくつもの目玉を持ち、大きな口から牙が見えているスーツの男で、もう一人は顔がぱっくりと二つに割れ、そこから脳みそが丸見えになっているアロハの男である。 どうやらランプ氏は、人間以外の金融機関からお金を借りてしまったようだった。 「あら、みんな可愛い顔じゃないですか」 「嘘だ! 絶対嘘だ! ダメですよ晶子さん、開けたら食べられちゃいますよ!」 ランプ氏がなんで慌てているのかさっぱりわからず、晶子は部屋の扉を開けようとドアノブに手をかけた。 「あなたたち、人ん家の前で何をしているんですか」 すると扉の向こうから機械的な抑揚のない声が聞こえてきた。 「なんだてめえ。ここがお前の部屋か。早くここを開けろ!」 「おう、早くしねえか。アニキが怒ってるだろ。食っちまうぞお前」 扉の向こうでドタバタとした音が聞こえてくる。何やらやってきた三人目の人物と揉めているようだが、 「“さっきニュースでやってたけど、今から隕石がこの街に降ってくるらしいから、自分たちの古巣に戻った方がいいですよ。ほら、もうすぐここは吹き飛ぶから”」 そんな大法螺を三人目が吹くと、怪物顔の男たちは完全に信じ込み、パニックを起こした。 「いやだー! まだ死にたくねえ! 逃げましょうアニキ!」 「ああ、早く異界に帰るんだ!」 などと叫び声を上げて階段を下りていくのがわかる。晶子はその三人目の人物の声に聞き覚えがあった。 「おかえり、中也くん」 「うん。ただいまアキ姉」 扉を開けると、そこには晶子の弟、夏目五兄弟の次男である中也《ちゅうや》が立っていた。彼はどんな荒唐無稽な嘘でも、相手に信じ込ませることができる異能――“ペテン”を持っているのである。 「……アキ姉。家にいるあのでかい電球ってなんなの?」 また妙な物を家に持ち込んできたのかと、中也は呆れたように部屋で怯えているランプ氏を指差したのだった。 「なるほど。事情はわかったよランプさん」 ランプ氏から話を聞いた中也は、また面倒事が増えたなと思いつつも、晶子が彼を助けたがっているようなので放っておくわけにもいかなかった。無視すれば晶子は勝手に行動してしまうだろう。 「ありがとうございます弟さん。借金取りを追い払ってもらって」 「あいつらはここに隕石が落ちてくると思い込んでいるからしばらくは追ってこないと思うよ、でも借りたお金は返さないといけない。だからその間にお金を稼ぎましょう」 「お金を、稼ぐ?」 「そうです。あなたは原稿代も印税も貯金も、全部使ってしまったわけですよね。なら後は別の仕事で稼ぐしかないでしょう」 「しかしこんな頭じゃあ、真っ当な会社は雇ってくれませんよ」 ランプ氏はこんこんっと自分の頭を軽く小突く。中也はお茶をずずっと啜った後こう言った。 「それならばその頭を活かす仕事をすればいいじゃないですか。乗りかかった船ですから、ぼくもあなたの就職活動に協力しますよ」そうしてすっと立ち上がり、中也はタンスから何やら衣装を取り出した。「どうだいアキ姉。どこかのお偉いさんに見えるだろう」 中也はどこかの独裁者のようなちょびヒゲを貼り付け、髪の毛をオールバックにし、そして悪趣味でド派手なスーツを着込んだ。その上お腹に詰め物を入れて恰幅の良い体型になった。締めにグルグルメガネをかければ、どこからどう見ても成金親父、という姿である。顔以外は。 「よく似合ってるわよ中也くん。七五三みたい」 「そ、そんな雑な変装してどうするんですか?」 中也がそんな格好をしていても若すぎて威厳なんてまったくない。しかし中也は自信がありげである。 「なに。ぼくのような無個性な人間は変装しても見抜かれにくいんですよ。それにぼくの異能があればどうとでもなります」 「そんなものですか……」 「そうです。さあ、ではランプさん。ちょっと出かけましょう」 ランプ氏が中也に引き連れられてやってきたのは双葉区の郊外にある人口山だ。 その人口山の奥では、厳かなヒゲを蓄えた小人たち――ドワーフがせっせせっせと何やら山に穴を開けており、「ハイホー♪ ハイホー♪ おっとこれ以上はいけねえ」などと歌いながら楽しそうに仕事をしている。 「中也さん。彼らは何をしているんですか?」 小人たちがツルハシやスコップを持って山を削っているのを、ランプ氏と中也は物影に隠れながら見つめていた。 「彼らドワーフはここで炭鉱を作っているんですよ」 「炭鉱? 人工島のここに?」 「ええ。もっとも、まともな炭鉱ではなく異界と繋がった炭鉱ですけどね。ランプさん、ここがあなたの仕事場になるわけです」 当然ながら未開発の炭鉱内は真っ暗で、ドワーフたちはヘルメットについている照明だけを頼りに作業をしている。その灯りだけではあまりに心細い。 「というわけで親方さん。うちのこのランプをお使いになりませんか」 中也は威厳を保ちながら、ドワーフの親方へと掛け合った。当然ながら親方は「はあ?」と、一際長いヒゲをさすりながら胡散臭そうな顔で応対する。だがそれも予定の内である。中也はどんっとランプ氏の背を押して親方に突きだした。 「“これは百年の実績を誇る我がエントロピー社の最高傑作、人型照明器具RXです。どんな暗闇でも昼のように灯りを照らすことができます。しかも電池も電線も不要。すべてこのランプの自家発光ですから。世界中、様々な工事の場で活用されているのです。実用実績ナンバーワン。安心安全。格安を売りにしております”」 中也は思いつきで大嘘をべらべらと喋り始めた。ランプ氏はこんなハッタリ通用するわけがないと思ったが、親方は「それはすごい」と手を打った。 「それで、利用料はおいくらで」 「“そうですね。このランプは人間と同じ扱いなので、使用料はそのまま日給ということで――”」中也はそろばんを取り出してパチパチと打ち出した。「“ざっとこんなものでどうでしょう。今回は初回ということで大分お安くしておきますよ。ただ契約が終わった後は、返して貰うことになりますが”」 「うむ。ではお願いします」 「“ご契約ありがとうございます。では、この契約書にサインを”」 中也はあっという間にランプ氏の雇用(?)契約を済ませてしまった。この少年はとんだペテン師だなと、ランプ氏は呆れかえる。だが助かった。自分のこの頭が活用できる仕事につけるとは幸運だ。ランプ氏は中也に頭を下げて、仕事に励むことになった。 それから数か月後、炭鉱工事も終わって、ランプ氏は借金を完済してもお釣りが出るほどに稼ぐことが出来た。雇用契約も終了し、たくましくなって帰ってきたランプ氏は、挨拶をするために再び夏目姉弟のアパートに訪れた。 「よかったですねランプさん」 晶子はにっこりとほほ笑みながらランプ氏にお茶を出した。その隣には中也もいる。 「ええ。これで借金地獄から解放されました」 「これからは借金を作らないように、変な女に騙されちゃダメですよ」 中也は苦笑混じりにそう言ったが、ランプ氏は首を横に振った。 「いいえ。わたくしはまだ雪姫さんのことを諦めてはいません。借金を返して、余ったお金でこれを買ってきたのです!」 ことんっとランプ氏はちゃぶ台の上に小さな箱を置いた。これは中也たちもドラマやなんかで見たことがある。 「ランプさん……これってまさか……」 「そう、婚約指輪です! しかも一番高級なやつ! これで貯金も生活費もまたゼロになりましたが後悔はしていません」 そう言うランプ氏の頭はピカピカと光っていた。 中也は呆れて物も言えなかったが、彼とは対照的に晶子はきゃっきゃと大喜びである。 「結婚するんですか、おめでとうございます! 私も結婚式に呼んで下さいね。お幸せに!」 とランプ氏の恋に感激していた。しかもランプ氏は照れたように頭をぽりぽりと掻いている。 そもそもまだ付き合ってすらいなかったんじゃ……と思ったが、中也はもう深く考えるのをやめた。 「おっと。もうこんな時間だ。では、そろそろ雪姫さんとの約束の時間なのでこの辺でおいとまさせていただきます」 ランプ氏は時計を確認して立ち上がり、婚約指輪の入った箱をしまい込む。その手は震えており、本当は緊張しているのだろうと中也は思った。 「ランプさん」 「はい?」 「“頑張って下さい。あなたは立派な人だ。きっと雪姫さんも振り向いてくれます。だから、自信を持ってください”」 ランプ氏を呼び止めて中也は最後にそう言った。異能《ペテン》を使い、彼に自信を持たせることが中也に唯一出来ることであった。 「私も応援してますよ。頑張ってください」 晶子にもそう言われ、ランプ氏は頭を下げ、「ありがとうございます」と出て行った。 美しい夜景が見える双葉公園の展望台、そのベンチでランプ氏は愛しい雪姫と待ち合わせをしていた。こういう時、もっと緊張して、心臓が破裂するほどドキドキするかと思ったが、どうやらさっきの中也の言葉《ペテン》が効いたのか、ランプ氏はどしっと男らしく構えていた。 「こんばんは、ランプさん。お待たせしましたわ」 冷えた夜の空気に、凛とした声が響く。ランプ氏が後ろを向くと、そこには世にも美しい雪だるまが立っていた。真っ白な肌と丸々とした体が描く曲線は蠱惑的で、妙な色気があり男たちを魅了させる。石炭で出来た目に見つめられたら凍えてしまいそうだ。 ランプ氏もまた、彼女の美しさに魅入られていた。 「ああ、雪姫さん。わたくしも今来たところなんですよ」 「そう。それはよかったわ。隣、いいかしら」 「どうぞ、ここにお座りください」 ランプ氏は胸ポケットからハンケチを取り出して、ベンチの上に置いた。 「あら、紳士ね」 「いえ。当然のことですよ」 ランプ氏にエスコートされるまま、雪姫はハンケチの上に腰を下ろした。じんわりと雪が染みこむ。 「ランプさん、あなたなんだか前に会った時と違うわね」 「そうですか?」 「ええ。なんだか落ち着いているもの。いつもはオドオドとしていて、気弱な感じがしてあたしの好みでは無かったわ」 「はは……」ランプ氏は雪姫の歯に衣を着せぬ物言いに苦笑する。だが彼は彼女のこんな性格にも惚れているのである。「わたくしは少しばかり力仕事に励みましたからね、そのおかげもあるんでしょう」 ランプ氏が自慢げに力こぶを作ると、そっと雪姫は彼の腕に触れ、つつっと自分の身体を密着させた。 「ほんと、逞しいわ。抱かれたい……」 「ゆ、雪姫さん……!」 なんてことだろうか、雪姫はランプ氏のことを見直していた。 これはいける。絶対にいける。 指輪を渡すチャンスは今しかない。 ランプ氏は意を決し、ポケットの中に手を突っ込んで箱を握り締める。だが雪姫はさらに体を密着させ、豊満なバストがランプ氏の腕に沈んでいく。 「あ、あ―――――――!」 ランプ氏の頭が激しく光った。 あまりの気持ちよさに、ランプ氏は興奮してビカビカと限界まで電球を発光させてしまったのだ。感情が高まると光の制御が出来なくなり、光り輝いたままになってしまう。 「す、すいません雪姫さん! 眩しいから目を瞑っていて下さい。今光を落としますから――」 と、ランプ氏が隣の雪姫に言ったのだが、もうそこには誰もいなかった。 ただベンチに雪交じりの水が溜まり、ぽとぽとと地面に落ちているだけである。 雪だるまの雪姫は、ランプ氏の発熱に耐えられずに溶けて消えてしまったのだった。いや、水に変化しただけで、雪姫は存在していた。だが随分とご立腹のようだ。 「あたしを溶かすなんて酷い人! もう二度と連絡してこないで! さようなら!」 ぶりぶりと怒って、水状のまま雪姫は去って行ってしまった。 「…………」 後には茫然とするランプ氏だけが残された。 告白する前に失恋してしまい意気消沈したランプ氏の頭の光は、ふっと消えてしまう。彼の心情を表すかのように、虚しく冷たい風だけが吹いている。 「はあ。結局わたくしは女の人に嫌われる運命なんだ……」 失恋の悲しみに暮れたランプ氏は、絶望していた。 彼女のためにあれだけ苦労し、頭も電球になり、借金も抱え、それを返すために何か月も炭鉱に潜ったのだ。それにも関わらず、恋は一瞬で終わりを告げてしまった。 「……死のう」 ランプ氏はこの世の終わりというような声で呟いた。 この電球頭でいる以上、自分は一生幸せになることはないだろう。 もう人生を終えてしまうのがいい。これ以上生きていても、きっと何もいいことはないのだ。 公園の立ち入り禁止ロープを解き、これで首でもくくろうとランプ氏は覚悟を決める。途中で枝が折れるなんて間抜けなオチがないよう、この公園で一番枝のしっかりとした木を捜して首吊り用にロープを結んだ。 ゴミ箱を足場にし、ランプ氏はロープに首を通す。 「ああ。さようなら現世。父さん、母さん。先立つ不孝をお許しください。アーメン」 えいっとランプ氏は足場を蹴った。 ロープがきゅっときつく締まる。 だがランプ氏は死ぬどころか意識が遠のくこともなく、ぶらんぶらんとまるで、てるてる坊主のようにロープに揺られることになった。 「……あれ?」 なんでロープが首に締まらないんだ、と思ったがそれも当たり前だった。電球の頭を持つランプ氏の首は、口金という金属部品だ。だからロープなんかが締まるわけがなかった。 「…………ぷっ。ぷはははははははははははははは!」 自殺にすら失敗してしまったランプ氏は、もうすべてがどうでもよくなってしまった。一周回って笑えて来た。ただ情けない自分に照れ笑いするだけである。 絶望から一転、逆にランプ氏の心は逆にテンションが上がっていた。 「はあ。死ぬなんてくだらないよな。やっぱ生きててよかった」 ここで自殺が失敗したのはきっと天からの報せなのだろう。これから何かいいことがあるかもしれない。 女は星の数ほどいる。別れがあれば出会いもあるのだ。 そう思うと、自然と希望が溢れてきた。 そんなランプ氏の気持ちに呼応するように、ランプ氏の頭は再び光り始めた。その光はただ激しいだけではない、温もりを感じさせるものであった。 「あら、綺麗な光ね。ちょっと寄らせてもらっていいかしら」 ふと、どこからか声が聞こえてきた。 声の方を向くと、そこには人間サイズの大きな蛾が飛んでいた。いや、正確には蛾そのものではなく、蛾人間とでも呼ぶべき者である。美しい女性の背中から、鱗粉をまき散らす羽が生えているのだ。頭からはみょんっと可愛らしい触覚も伸びている。 「は、はい」 ランプ氏が返事をすると、蛾女は寄り添うように彼の近くで飛んだ。蛾の習性なのか、彼の電球の光に惹かれてやってきたようだ。 「本当に温かい光。ずっと傍にいたいぐらいだわ」 蛾女は長い睫を瞬かせ、ランプ氏をじっと見つめる。 ランプ氏はまだ自分のポケットに婚約指輪が収まっていることを、ふと思い出していた。 ※ ※ ※ そしてそれから幾月も過ぎ、翌年のお正月。夏目姉弟のアパートに一通の年賀状が届いた。 「中也くん、見て見て! これ見て―!」 こたつの中に入って中也がみかんを剥いていると、ドタバタと晶子が年賀状を持って飛び込んできた。 「どうしたのさアキ姉」 晶子から年賀状を受け取った中也は驚く。 「ねえねえ。よかったね中也くん。あの人幸せになったみたい」 「そうだねアキ姉」 また一枚返事を書く年賀状が増えたな、と中也は手紙とペンを取り出した。 届いた年賀状は写真つきだ。そこには『子供が出来ました』という文字と共に、ランプ氏とその奥さん。そして電球の頭と蛾の羽を生やしている赤ん坊が、幸せそうに映っていたのだった。 おわり トップに戻る 作品保管庫に戻る
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ラノでまとめて読む 【danger zone5~正当なる資質】 星の海 地上から400kmの衛星軌道上、航空学的には"宇宙空間"に分類される蒼闇の中を周回する、ISS国際宇宙ステーション。 1999年に組み立てが開始された当初、予定されていた2016年の運用停止は、やはり当初から計画に組み込まれていた三年間の延長がされた。 最終的には、俺翼か仏蘭西少女の発売日並みに再延長を重ねる積もりだったタイムテーブルは、予算という最も強力な異能が発動したことによって圧縮され、 総工費1800億ドルを費やした、人類史上最も高価な建造物は、2019年末の運用終了と、解体の開始が正式に決まった。 ステーションに滞在する科学者や宇宙工学者達は、宇宙での活動で得た貴重なデータと、次期計画で継続使用する機器の撤収準備を進めていた。 最初は、どこに行っても空気を読まないアメリカ人宇宙飛行士のジョークかと思った。 何かが居た。 どうやら生物であるらしい。 その物体は四肢を持ち、直立していた、体格は長身な人間くらいだが、、その姿は地球における霊長とは似ても似つかない。 皮膚は金属質の外骨格で覆われている、黒く光沢のある全身、異常な肥大化を見せる頭部、口吻は甲殻類の、あのウネウネした奴。 要するに、宇宙を舞台にした超有名映画に出てきて、シガニー・ウィーバーと戦った怖~い宇宙生物、あれがそのまんま居た。 もしかしたら、リドリー・スコットは過去、脚本執筆かコンテ切りの過程で、ラルヴァとの交流があったのかもしれない。 知人やスタッフをそのまま出す漫画家のように、あるラルヴァの友人を自作の準主役にしたとしても不思議じゃない。 スターウォーズやハリーポッター、また、東映怪獣映画では、ラルヴァがブレーンとしてキャスティング協力しているという説もある。 諸般の事情で、以後、宇宙ラルヴァと呼称するラルヴァは、複数の実験棟モジュールが繋がった宇宙ステーションを満遍なく蹂躙した。 自身の触れた物を原子分解する異能を操り、実験棟の壁を抜け、与圧された居住区と宇宙空間を自在に行き来し、衛星軌道上を縦横に駆け回った。 当初は大半の人間が、それを悪趣味な着ぐるみだと思っていたが、ステーションのスタッフ達の一人は、その異形の正体に気づいた。 かつて政府内でラルヴァ対策に係わり、到底出世の望めない部署から、苦学して宇宙開発の道へと進んだ、ひとりの技術者。 「ラルヴァが出た~~~~~!!」 このアホンダラは、NASAの中でも限られた人間しか知らない、ラルヴァと異能のことをペラッペラと喋りやがった。 事態は、ステーションの運行を管理するテキサス州ヒューストンの、米国航空宇宙局ジョンソン宇宙センターに報告された。 通信内容は国家による機密指定を受け、封鎖されたセンターの一角が、NASAの中でも異能とラルヴァを知る人間で固められる。 幸い、人身や生命維持機関への被害はまだ出ていないが、あんなキモいのが素っ裸で、ステーションのあちこちを走り回っていては、 あと半年ちょっと先、年の瀬に控えた、国際宇宙ステーションの慌しい引越し作業に、支障をきたす事は必至だった。 NASA職員も人の子、ステーション撤収だけでなく、年末には帰省やらクリスマスのお祈りだの、色々と用事がある。 NASAと、その上部組織であるアメリカ合衆国政府は、この問題の早急な解決を、統合参謀本部のラルヴァ対策機関に要請した。 トヨタ社が提唱した"カイゼン"と呼ばれる業務効率向上計画は、アメリカを始めとした世界各国の企業に影響を与えたが、 最近の世界各国政府の中には、日本の官僚組織が持つビジネススタイル"マルナゲ"や"タテワリ"がマイブームだという人間が増えていた。 テキサス州ヒューストン ジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港 しばしば"全米最低"の機内サービスと評され、ゆえに格安チケット定番キャリアのひとつとなっている、ユナイテッド航空のエアバスA-330から、 三人の日本人女子学生がローディングゲートに降り立った。 正確には、日本人二名と、ほぼアメリカ人ながら日本国籍の半端者一名。 「あ~、あたしエコノミーに乗る日が来るなんて思わなかったわ、飯マズいし、体いてぇ」 「わ、わたし、飛行機に乗ったの、はじめてです、乗る時、階段に草鞋を脱いできちゃいました、降りたら拾っとかなきゃ」 「おまえら、オノボリさんじゃないんだから、あんまり浮かれるな、…しかしながら…とりあえず写真でもとらないか?」 風紀委員長の山口・デリンジャー・慧海と、逢洲等華 そしてサポート委員として、正規の風紀委員への昇格に向け、頑張る飯綱百《いづな もも》。 双葉学園の異能者が、テキサスにやってきた。 「よし、まずはレンタカー・カウンターでコーヴェットかコブラをレントするぞ、あたしの運転《ラン》なら30分で着けるぜ」 山口・デリンジャー・慧海にとってテキサスは、故郷カンザスの隣町、銃と車の取り締まりが緩いので、幼い頃からよく遊びに来ていた。 「デンジャー、国民の血税たる学園補助金で行く公費出張だ、我々にはバス代しか支給されていない」 漆黒の制服に袱紗で包んだ二刀、異国にあっても物静かな居住まいの逢洲、しかしどっかウキウキしていたらしく、旅行バッグはキティちゃん。 「あの~、あのバスじゃないですか?あ、出ちゃいますよ~」 逢洲と同じく、初めての海外旅行の百は緊張していて、成田での待ち合わせに、風紀委員として訓練や出動をする時の服装でやってきた。 裁《た》っつけ袴に刺し子の着物、ローデシア軍の市街地迷彩を思わせる濃灰色の忍び服に、慧海は無理でも御鈴なら入れそうな柳行李を下げている。 一応、三人の異能者がラルヴァや異能者と戦うために必要な銃や刀、その他の"凶器"は、特例で機内持ち込みが許可された。 警戒のため三人の後席についた機内警備員《スカイマーシャル》と、慧海はずっと英語で銃と車とフットボールの話をしていた。 空港を出てすぐの巨大なバスターミナルに集う、車体も座席も日本の路線バスの倍はありそうな、グレイハウンドの中距離バス。 ヒューストン市街地へと向かうシャトルバスステーションの脇にある、青いペイントに、星とロケットが描かれたラッピングバスの停留所。 慧海達がチケットも買わずに追いかけたバスには間に合わなかったが、時刻表によると、次のバスは10分刻みで出るらしい。 子供じみた宇宙模様のバスはすぐにやってきた、主に仕事をリタイアして旅行三昧を楽しむ、爺さん婆さんのツアー客と共に乗り込む。 そのバスの行き先は、ヒューストン最大の観光スポット、市街北部の空港から外周道路を経た、東端のとある場所が終点となっていた。 関東に例えるなら、熊谷あたりにある国際空港に着陸して、外環道経由で木更津の辺に来た感じだろうか。 1601 NASA PARKWAY, HOUSTON, TEXAS 77058 LYNDON B. JOHNSON SPACE CENTER 国際宇宙ステーションで、ラルヴァの侵入を受けたNASAは、宇宙ロビイストと呼ばれる政治家連中に尻を叩かれ、事態の解決に動き出した。 異能とラルヴァについて知っているスタッフ以外を閉めだし、協議を開いた結果、対ラルヴァ活動のスキルを有する異能者の急派を決定した。 会議の出席者が集まった直後に誰かが発した、「異能者がヤればいいじゃん」の一言、会議は2分で終了、解散し、計画は動き出した。 中央情報局《ラングレー》のコンピューターが、登録された世界中の異能者から、適任者を選び出す、サスペンス映画ではお約束のシーン。 消去法の結果、選ばれたのは日本の異能者、日本にいくつかある異能者教育機関のひとつに在籍する、三人の学生を選び出した。 対ラルヴァ戦の実績は合格レベル、学業成績はそこそこ、選別を丸投げされたコンピューターがやったことは、鉛筆転がしとさほど変わらなかった。 情報局のデータベースによって、日本の異能者三人が選ばれたのは、様々な条件が勘案された結果だった、人間の目による再精査は省かれた。 今回の異能者派遣のため、緊急に用意されたロケットのペイロード制限に合う体格が限られていたという事情もあったが、主たる理由は、来月に控えた異能者国際会議。 アメリカ及び欧州各国の異能者達は、国際会議の場で催される異能者カーニバルと、学生パレードの準備で、それどころではなかった。 多くの国で軍人や予備役学生と兼任する国家異能者は多忙で、苦学生も多い、学業やバイトで忙しい奴を呼ぶ訳にはいかない。 選別結果に従い、アメリカ合衆国統合参謀本部のラルヴァ対策室から、日本政府の頭越しに東京の双葉学園へと正式な依頼が舞い込んだ。 世界各国の異能関係者がニューヨークに集まって、ワイワイ楽しくやる異能者カーニバルでは、日本をハブったくせに虫のいい話。 学園では、世界の異能者から選ばれた三人、山口・デリンジャー・慧海と逢洲等華、飯綱百の海外派遣が正式に決まり、出張予算が組まれた。 ケチ臭いアメリカの異能者機関が送ってきたのは、ツアー流れのエコノミー航空券三枚のみ、滞在費や現地交通費はそっちで何とかしろ、との事。 ともあれ、万事は繰り合わされ、三人の異能風紀委員が、ラルヴァに乱された宇宙の風紀を守るため、ロケットの街ヒューストンにやってきた。 ヒマだったし。 日本、そして世界の異能者にとってこれまで前例の無い、宇宙空間への異能者派遣と、無重力下での対ラルヴァ活動。 生徒課長の都治倉喜久子《つじくらきくこ じゅうななさい》から、その話を受けた山口・デリンジャー・慧海は「無理」の一言でニベもなく断った。 NASAと中央情報局が選び出したのは、狭い閉鎖空間での接近戦に熟練した異能者、慧海は海兵隊時代の実績があり、何より今んとこヒマ。 しかし、慧海の発現させた異能弾丸を発射するのは、大口径小型銃のデリンジャー、重力下でも結構な反動《キック》がある。 無重力状態でも拳銃の発砲は可能だが、射手は手加減のないキックで壁に叩きつけられ、宇宙空間で撃てば星の彼方に飛んでいく。 慧海だってゴルゴ13が宇宙で狙撃する話くらい読んだ事あるし、作中のデイブみたいな超武器職人の知り合いは日本に居ない。 予想通りの返答を受けた生徒課長の都治倉喜久子は、ガンダムPGキットほどの大きさの、紫檀の箱を出した。 「先ほどカンザスシティより届きました、あなたのお母さまからのプレゼントです」 数十分前、緊急立ち入り禁止措置が取られた双葉学園の海上訓練場に飛来したミグ31ファイアフォックス戦闘機が、何かを投下したのは知っていた。 亜音速で飛びながら狭い海水浴場に落とす技量を持つ奴はそうそう居ない、重大な荷物だということは慧海にも察しが着いた。 慧海は紫檀の箱を開ける、真紅の布が貼られた中身、慧海のパーソナルカラー、それは即ち、これは慧海だけのために作ったもの。 つまり、母から娘へ、プロのガンスミスからプロのガンマンへの、これで何かをやれというメッセージ、半端な仕事は許さないという、プロの意思。 「驚いた、ママ、いつのまにこんなオモチャを作ったの?」 「ご存知でしょ?あの方が本気になれば、パリ列車砲だって一晩で作れるってことを」 慧海が完成まで三週間を要したデリンジャー用のサイレンサーも、彼女の母親ならチョイと撫でただけで完成させられただろう。 紅いビロードに包まれ、ものすごく高級なチョコレートのように並んでいたのは、銀色に輝くレミントン・デリンジャー拳銃。 銃器は予備を含めて、常に複数持ち歩く慧海のスタイルに合わせて、七丁の小型拳銃が収まっている。 ひとつ摘み上げ、慧海好みのファイア・ドラゴンの彫刻《エングレーヴ》が入った、プラチナ仕上げのデリンジャーを中折れさせた。 相変わらず母親の調整、調律した銃は作動が滑らかだ、ガンスミス仲間からは「あの人は鋼鉄をバターの塊に変える」と言われている。 真っ先に目に入る銃身と薬室、ふたつの穴は、慧海が今、首から下げている41口径のデリンジャーよりずっと径が大きい。 銃身外径を変えないまま、慧海の母が持つ神業の旋盤技術で、装填弾薬のサイズを決める内径を削り広げたデリンジャー。 ライフリングは削り落とされ、滑膣銃身にはバイトの加工痕が残っている、銃身は鏡面仕上げより粗面のほうが火薬ガスは安定する。 大幅に内径拡大《ボア・アップ》された銃身とチャンバーの肉厚は、通常弾を装填して撃てば、一発で銃身破裂するほど薄い。 普通に撃てば射手を殺す、二穴ガバガバのビッチ銃、しかし、慧海は紫檀の箱に銃と共に入っていた、カーボンファイバー製の弾箱を見て納得した。 猟用大口径銃並の、13mmの外径、フルメタルジャケットの弾頭部分だけを拡大延長したような、薬莢部分の無い、尖頭弾丸。 排莢のための切り欠きのない弾丸基部《リム》には、斜めに切られた4つの穴が開いている、中央にはごく普通の雷管。 かつて、ジャイロジェット・ピストルという銃器があった。 中空の弾体に推進薬を詰め込み、尻の炸薬を叩いて点火させることで、弾丸がジェット噴射で飛んで行く、ピストルサイズの無反動砲。 効率の悪い樹脂系火薬の燃焼ガスで飛んで行く弾丸は、初速ゼロからゆっくり加速し、弾速が頂点を迎えるとすぐに失速する。 命中率最悪、近くても遠くてもパワー不足の変態銃は、銃器として優れた所が皆無に近かったので、商業的には大失敗した。 ジャイロジェットの専用弾丸、マニアの間では一発300ドルで取引されている、13mmの超小型ジェット弾。 「50発入りがひと箱、慧海さんなら15~6発も試射してイメージを掴めば、無限弾丸の能力で発現可能でしょう」 異能銃の天才ガンスミスである母親が作った、特製の無反動デリンジャーとジャイロジェット弾を手にした慧海は、 スー族の精神的指導者を務める慧海の叔父が、可愛い姪の頼みを受けて慧海の愛銃《デリンジャー》と右肩にお揃いで彫った、炎を吐くドラゴンのように笑った。 「…これ、撃ってみたいわね、このポンコツのビッチ銃が、唯一生かせる場所で」 慧海はボア・アップ・カスタムされたデリンジャーを、体の各所に収納すると、早速、試射をすべく生徒課長執務室を出た。 人間には、生まれ持っての運とかめぐり合わせとか役割とか言えるものがあるらしい、そういう星の下に生まれついた奴ってのは居るもんだ。 慧海は、射撃のプロ競技"ビアンキ・カップ"の正式種目、ムーヴァーといわれる、左右に動く標的を撃つ練習がしたかった。 ちょうどパシリの最中だった醒徒会ショムの早瀬速人が、校舎を出た慧海の目の前を、絶妙のタイミングで横切った。 慧海がとっさに取った行動の半分は、魔弾の射手としての反射的なもの、そして、残り半分はやさしさで出来ていた。 己が銃の前で動く標的となった奴が顔見知りなら、状況によっては命までは取らないのが、慧海の優しさ。 ☆☆☆ 慧海は、このデリンジャー・ジャイロジェットコンヴァージョンでヒトを仕留めるには、5mほどの間合いが最もいいと知った。 それ以上の距離を取ると、ただ吹っ飛んで一回転しながら壁に叩きつけられた後、音速で走って逃げられるという結果となる。 白い円筒器《チャンバー》の中に居た。 身長168cmの飯綱百が、両手を広げると指が左右の壁につきそうになる、チューブ状の空間、奥行きは広い。 全長20mほどのチャンバーの中、NASAにスカウトされた異能者、山口・デリンジャー・慧海と、飯綱百が、向かい合っていた。 素手格闘より遠い5mの間合い、お互いが肩幅に足を開き、重心を落として両手をくつろげる、双葉学園でよくやった、模擬戦の構え。 慧海は練習用のデリンジャー、マルシンのエアガンに装填し、百は背中に差した、乱取り稽古に使う竹光の小太刀に手をかけた。 チャンバーの両端から、双方が駆け出した、その積もりなんだろうが、二人とも前に進めないまま、空間で足を動かしている。 力強く足を踏み出した慧海と百は同時に、前へ進めないまま、地を離れ宙に浮き上がった、前進のエネルギーで壁や天井に叩きつけられる。 溺れた子供のようにもがく二人は、空間を泳ぎながら双方近づこうとするが、どうにも動かなかった体は、意思に依らず突然進みだし、二人は激突し絡み合った。 映画バーバレラを思わせる、官能的な空中浮遊ラブシーン、慧海は、すんでの所でファーストキスを百に奪われるところだった。 二人は、無重力空間に居た。 互いを攻撃しようにも、浮き上がったりくるくる回ったりするだけ、百は空を泳ぎながら小太刀を抜き、慧海はデリンジャーを発砲した。 バックハンドで抜刀し、体のひねりを活かし、斬りつけようとした百はその場で横回転し、スウェイして反動を逃がそうとした慧海は縦回転する。 突然、二人の間に重力が戻った、揃ってチャンバーの床に胸から落っこちる、クッションの乏しい慧海は、体より心が痛そうな悲鳴を上げた。 荒っぽい減速の感触が伝わってきた後、ドンっという艦載機並みの着陸衝撃が二人を襲い、慧海と百は抱き合いながら円筒の中を転がる。 今度は百の胸がクッションになってくれた、慧海はDカップの胸に包まれ、この柔らかくていい匂いのオッパイは緩衝だけでなく、痛みを忘れるモルヒネにもなると思った。 超音速旅客機 コンコルド いにしえの名機にして、英仏共同事業最大の失敗作、NASA実験機として余生を過ごしていた機は、かつてない酷使を受けていた。 地上で無重力体験が出来る放物線飛行を終え、ジョンソン宇宙センターの4000m滑走路に着陸したコンコルドは、まだまだとばかり離陸ウェイへと進む。 限られた時間の中、模擬戦訓練が可能な機内スペースを備え、速やかに無重力状態を起こす高機動飛行を連続して行えるのは、この前世紀の化石のような機だけだった。 老いたる鷲は、50年前に製造されて以来はじめての連続フルパワー飛行で、残り少ない機体寿命を削りながら、空に生きる者の本懐を遂げていた。 到着から発射まで40時間、事実上一日半しかない、宇宙空間での対ラルヴァ戦を想定した訓練、慧海と百は、合計28回の弾道飛行を重ねた。 映画「アポロ13」の撮影のため弾道飛行を経験したトム・ハンクスより、10回ほど多い。 藜の里と野尻湖で、戸隠忍者の水術を会得した百と、海兵隊フロッグメン部隊の研修でスイミングとダイビングを叩き込まれた慧海。 無重力に極めて近い、水中での活動に熟練していた二人は、やがて無重力空間に多少慣れ、ラブシーンはだいぶソフトなものになった。 山口・デリンジャー・慧海と飯綱百は、ジョンソン宇宙センターのトレーニング施設をほぼ全て借り切り、速成の宇宙飛行士訓練に勤しんでいた。 二人に課せられたのは、宇宙船の運行を専門スタッフに任せ、シャトルの乗客として宇宙に行くペイロード・スペシャリストではなく、 自ら操縦し、衛星軌道到達からドッキング、そして大気圏に突入して地球へと帰還するまで、宇宙船運行のすべてを受け持つというアストロノート。 当初、慧海とコンビを組み、宇宙へと派遣される予定だった逢洲等華は、ジョンソン宇宙センターに隣接したホリディ・インの一室に居た。 訓練の合間、慧海と百は、船外活動に備えてロケットに搭載される予定の、密閉与圧された宇宙服を着て、逢洲のツインルームを訪れた。 「…ゴホ…ゴホ…済まん、わたしとしたことが…こんな時に風邪をひくなんて…」 「アイス、おまえ…遠足の前に熱出すタイプだったろ?」 「わたし、逢洲委員長の替わりを務めるべく、頑張ります!」 逢洲はホテルにチェックインした直後、高熱に倒れた、慧海がホテル一階のコンビニで買ってきた、日本ではたぶん薬事法に怒られる成分の入った風邪薬はよく効いたが、 閉鎖空間で換気も限定された国際宇宙ステーションに、風邪はご法度だった、現地のスタッフも風邪をひけば完全隔離される。 慧海と百は、放物線飛行の無重力空間や宇宙センター内の訓練プール、そしてカマボコ型の資材倉庫をひとつ占拠した即席の道場で訓練を重ねた。 想定していたのは、無重力での戦闘、閉鎖された狭所での接近戦、相手は、世界中のどんなデータベースにも存在しない、宇宙ラルヴァ。 国際宇宙ステーションからの情報によれば、言語による意思疎通は不可、その肌は刃物が通じず、銃で撃っても壁を通り抜ける異能で逃げられる。 現在、ステーション内では、合計4体の宇宙ラルヴァが確認されているという、そんな数字は現場に着いたら水増しされることは二人とも承知していた。 逢洲のダウンによって、補欠要員の飯綱百とコンビを組むことになった慧海は、限られた時間の中でステーション内をクリアするため、二手に分かれての戦闘を決定した。 原則的にコンビプレイの対ラルヴァ戦闘、危険が伴う単独でのサーチ&キル、異能を止める異能を持ち、何より強靭な体と精神を持つ忍びのモモを、慧海は信頼していた。 当初の予定では、二人一組の相互支援によって、宇宙ステーション内の各個モジュールを順繰りに索敵し、交戦撃退する予定だった。 至近距離を逢洲、中距離を慧海が受け持ち、双方を補い合いつつ展開すれば、無茶な単独交戦をせずとも12分ほどで全てのブロックをクリア出来る。 しかし、クナイと手裏剣、投擲武器を主とし、小太刀は止めを刺す時のみに用いていた百と、拳銃を武器とする慧海、互いに中距離《ミドルレンジ》ファイターの二人は、 無敵無敗のコンビとして地上のラルヴァや異能者に恐れられている、アイス&デンジャーのオールレンジアタックのような、高速度の各個撃破は出来ない。 二人が到達し、地上に帰還する宇宙船の滞在期間は有限、燃料や酸素、何より、許された予算内での機材レンタル費用の制約は厳しい。 結果として、百と慧海の即席コンビは、双方の守備範囲をスタンドアローンで戦う、危険な仕事を短時間で済ませなくてはならなかった。 慣れない無重力環境で、双方の体が密着せんばかりの状態で格闘する接近戦訓練、普段の二人ほどの精彩に欠けていることは否めなかった。 フォロー無し、バックアップ無しの無重力空間、こんな甘い備えで未知の宇宙へと出動してもいいのか、互いの心を、不安が襲う。 こんな時、いつも助けてくれる漆黒の制服を纏った風紀委員長、双剣と予測能力の異能者に助けを求めたい気分だった。 「おまえら、いつまでそんなお遊戯をやっているつもりだ?」 倉庫の入り口、漆黒の制服に逆光を浴びて、二刀を下げた双葉学園きっての接近戦スペシャリスト、逢洲等華が立っていた。 逢洲の口と鼻には、塗装工が使うような、立体成型のゴツいマスク、額にはひえピタの風邪装備、どっちもNASAの売店で買ったもの。 NASAで採用、ってのはあやしい通販グッズの枕詞、実際にNASAで使ってるのは、予算不足から、多くは型遅れの安物だったが、 慧海も百も、そして逢洲も、NASAで開発とか、宇宙計画に採用とか聞くと、なんとなくそれが凄い物のように思えてくる。 実際にNASAで働く職員も、それは同じらしく、風邪をひいた逢洲が、NASAマスクで防御した上で訓練に参加することを許可した。 NASAって、何かすごい響きがある。 打ち上げセンターの片隅、臨時の訓練場として占拠した、ガラクタだらけで狭っくるしい倉庫で、逢洲が加わり再開された、接近戦訓練。 急遽、現地の土産物屋で調達した二本の竹刀を構え、慧海と百の相手をする逢洲、風邪の熱で頭に血の上った逢洲は、普段の5割増しで危険だった。 慧海は、発射前の準備で打ち上げセンターのスタッフに呼び出されるまで、逢洲からの特訓を受けた、二本の竹刀で徹底的にボコられた。 涙目になった慧海が悲鳴を上げれば上げるほど、逢洲は更に激しく責める、もう風邪の苦しみなどどっかいったような、なんとも言えない嬉しそうな表情をしている。 当然、飯綱百も逢洲から接近戦、密着格闘の訓練を受けたはずだが、逢洲が百以外の人間を人払いして訓練を始めた狭い密室。 逢洲と百が中で一体ナニをしていたのか、二人は決して話そうとしないし、慧海も知らない、なんだか聞きにくい雰囲気。 少なくとも、密室から出てきた逢洲は、風邪が悪化して熱に浮かされた、それでいて満ち足りた表情をしていて、 激しい"訓練"で忍び服を乱れさせた百は、接近戦のスキルが上がったせいか、上気した顔はなんだかちょっぴりオトナになったように見えた。 予定発射時刻まで二時間、カウントダウンが始まる、慧海と百が、軍隊式に互いの装備を確認し、宇宙飛行士の船内作業服に袖を通す頃、 直前まで激しい訓練を行った逢洲は、無理が祟り、管制センターの至近にあるホリディ・インの一室でブっ倒れていた、体の酷使より興奮のしすぎで風邪をこじらせたらしい。 遠くでカウントダウンが聞こえる、窓から打ち上げタワーが見える逢洲の部屋のドアが無造作に開けられた、シャツ一枚の逢洲は咄嗟に毛布で体を隠す。 青いアストロノート・スーツ姿の慧海が、NASAマスクを着けただけの姿で、風邪ウィルスが充満する、逢洲のツインルームに入ってきた。 ベッドの枕元に座った慧海は、黙って逢洲の冷えピタを剥がし、自分のおデコで熱を測った。触れ合う額、慧海の匂い、マスク越しに頬をくすぐる吐息。 熱に浮かされた逢洲は思わずそのまま、慧海をベッドの上にガバっとしちゃいそうな顔をしたが、慧海が新しい冷えピタを貼ったことで、一旦落ち着く。 「……すまんデンジャー…できれば…貴様らだけで…行かせたく…なかった…」 マスクをつけた慧海はベッドに腰掛け、宇宙船操縦用の黒い編み上げブーツを履いた両足をブラブラさせながら、ぶっきらぼうに話し始めた。 「しょうがないだろ、ラルヴァより怖い風邪菌撒き散らすわけにはいかないし、そのために補欠のモモを連れてきたんだ」 逢洲の枕元、無遠慮に尻を乗せる慧海の、放り出された手、逢洲は手を伸ばそうとして止めた、触れただけでも、自分の悪いモノが伝染りそうな気がした。 慧海は逢洲の心を知って知らずか、そのまま、所在なさげにシーツの上に留まる逢洲の手に、無造作に自分の手を重ねた。 「デンジャー…頼みがある…死ぬなよ…生き残れ…危なくなったら…百と一緒に逃げてこい…わたしの望みはそれだけだ…」 ベッドの上で天井を見上げる逢洲、背を向けながら手を重ねる慧海、互いに指を絡ませる、新谷良子が「エロ繋ぎ」と命名した手の繋ぎ方。 「そして…その宇宙に住まうラルヴァ…もし可能なら、殺さず解き放ってくれないか…この空は…きっと我らだけのものでない…」 逢洲は、慧海と繋いだ手をきゅっと握る、きっと今、逢洲の手は風邪の熱ではない、体の芯から発する、別のもので熱くなっている。 「…もうひとつ…いいか?…デンジャー、いや…慧海、わたし…おまえにずっと言いたかったことがある…こんな気持ちは初めてなんだ、聞いてくれ…」 慧海は何も言わず、背を向けたまま、逢洲と重ねた手を握り返す、今の慧海の手は、逢洲より熱いかもしれない、逢洲は、更に強く、もっと強く握り返した。 「…宇宙で二人っきりになったからって…百のオッパイに何かしてみろ?…たとえ銀河の果てだろうと…貴様を斬りに行く!」 剣道家の握力で、指を折られんばかりに手を握られた慧海は、痛みに返事もできぬまま、左の掌でベッドをバンバンと叩いた、まいったまいった。 部屋の入り口脇で二人の会話を聞いていた百は、委員長二人のそっけない言葉に感動し、目頭を抑えていた手を、あわてて自分の胸に当てた。 今朝行われた船内作業服の採寸、慧海の体型は相変わらず子供サイズだったが、百のバストは89のD、学園にきてから少し大きくなっていた。 発射までのカウントダウンは、あと30分を切った。 慧海と百は、発射台の下にある宇宙飛行士待合室に移った、通常の宇宙飛行士が、出発前に家族と触れ合いや、精神集中をする場。 二人は、日本から持ってきた電子生徒手帳とポメラを広げながら、ギリギリまで対ラルヴァ戦闘のシミュレーションを続けていた。 通常、宇宙飛行士に課せられる高G下での機材操作訓練や、グルグル回転するカゴの中で三半規管の強さを鍛える訓練はメニューに無かった。 多少なりとも英語のわかる慧海は、タイムテーブルの最終確認中に、背後から聞こえるNASAスタッフの声は聞かなかったことにした。 「減圧訓練やってないのか?」「オマエがやったっつったから進めたんだぞ?」「オレは段取りしたとしか言ってねぇよ」「どーすんだよ?」 宇宙飛行士の必須となる訓練の大部分は、緊急の打ち上げには足りない時間とスタッフの中で、帳簿上にのみ存在するものとなった。 21世紀初頭、NASAはスペースシャトルの運用を2010年に停止し、以後はロケット型の宇宙輸送船に移行すると発表した。 10年後の現在、観光客やスポンサーへのウケがいいスペースシャトルの退役は未だ延長を重ねられ、シャトルとロケットの混在は続いていたが、 アメリカの宇宙開発における新造機の設計は既に、確実性が高くコストも安いロケット中心へとシフトされつつあった、なんとも夢が無い。 異能者の宇宙への出動、歴史上初めての、大気圏外における異能活動には、NASAが開発していた最新ロケットが供された。 最新すぎると言ってもいだろう。 そのロケットは、まだ人間を乗せた発射実験をしていなかった。 チンパンジーを乗せて打ち上げる予定だった、動物実験用ロケットに、二人の異能者にあわせた、緊急改修が行われた。 犬や猿を乗せる前提の設計、操作物の無かった操縦席には、機体各部のブースターと船外装備を操作するデバイスが追加され、 機関士席の前には、衛星軌道への到達や大気圏突入に必須の各パラメータや運行情報を表示するディスプレイと、演算機能が加えられる。 慧海と百は、発射の3時間前に一度発射台に登り、宇宙飛行士に「フォルクスワーゲンの前部座席くらい」と言われたコックピットで、即席の操縦訓練を受けた。 Su-34戦闘機から流用した並列座席、小柄な二人には案外乗り心地がいい、背後には、その戦闘機同様に電子レンジと冷蔵庫までついている。 百の前には、NASA最新型ロケット、チンパンジー実験機に追加された操縦システム、プレステⅤのパッドがブラ下がっている。 慧海の前には、今時珍しいTFT液晶のディスプレイ、そして千円くらいで売ってる関数電卓と、筆算用のレポート用紙と鉛筆。 電子装置が軒並み壊れ、オメガのクロノグラフと計算尺で姿勢制御のタイミング調整をした、アポロ13よりはかなりマシだった。 信州黒姫の藜里から双葉学園に来て、初めて高度情報端末を手にして以来、猿のようにゲームをやりまくっている百が操縦士に選ばれ、 高い数学センスを持ち、特に関数、変数の計算にかけては天才的、という設定になっている慧海が、航空機関士の役目を受け持つことになった。 NASAでは、双方の適性がはっきりしない時は、くじ引きかコイン投げで決める予定だった、どっちにしてもチンパンジー。 逢洲の体に合わせて成型されたシートは、超特急の改修作業の中で何とか修正されたが、百の90センチのヒップには少々キツい。 基本的に、ヒューストンの管制センターと、ドッキング先の国際宇宙ステーションで運航制御される、チンパンジー・ロケット。 機体の制御をするというプレステのパッドは非常用で、普段は機内の照明や空調の操作、テレビやラジオのチャンネル替えくらいしかできない。 パラメーターが表示されるというディスプレイも、見て何かを変更できるわけでもなく「ワーすげぇ」と言うくらいしか用はない。 電卓とメモ用紙は、ディスプレイに表示される関数や変数を検算するためと言われてるが、それでどうなるかと言われれば、どうにもならない。 発射まで、あと300seconds、最終カウントダウンが始まった 発射台のタラップを昇る、二人の宇宙飛行士。 山口・デリンジャー・慧海と飯綱百は、若田さんや向井さんの会見でお馴染みの、NASA宇宙飛行士の晴れ姿。 ディープスカイ・ブルーのNASA制式ジャンプスーツを着て、宇宙への長い階段を登っていた。 胸に刺繍されたネームタグと、NASAとJAXAのワッペン、その上には、二人のアイデンティティを示す二葉のマーク。 日本を出る時、成田空港で三人が貰ったワッペン、双葉学園の校章が、両面テープで貼り付けられていた。 タラップの一番上、チンパンジー・ロケットのハッチを前に、青い宇宙服の二人は立ち止まった。 一瞬、見詰め合うと、何も言わず、何一つ打ち合わせることもなく、揃ってジャンプスーツのジッパーを下ろす。 慧海と百は、宇宙飛行士訓練生が夢にまで見るという、NASAの青いツナギを、二人同時に脱ぎ捨てた。 宇宙への入り口から、タラップ下の地上に放り出された二着のツナギ、その上から、黒い薄皮のパイロットブーツが落ちてくる。 山口・デリンジャー・慧海は、NASAのツナギの下にブルージーンズと赤いウールシャツ、革のベストのウェスタン・スタイル。 飯綱百は、濃灰色の裁っつけ袴に刺し子の着物、同色の手拭い頭巾、藜里の忍び服を着ていた。 慧海はヘルメットバッグから取り出した革のウェスタンブーツを履き、テンガロンハットを被る。 百は現地の藁を綯い、作り直した草鞋を足に結び、一尺四寸の板発条《いたバネ》刀、黒い忍び拵えの小太刀を背中に差した。 二人の宇宙飛行士は、異能者の誇り、ガンマンと忍者の魂を身に纏い、チンパンジー・ロケットに乗り込んだ。 ファイヴ フォア スリー ツゥー ワン…イグニッション!
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※この話は夢オチです※ らの ある日のこと、おれは醒徒会の呼び出しを受けた。 醒徒会じきじきに呼び出しなんて初めてのことで、自分が何か悪いことでもしたんじゃないかとビクビクした気持ちで醒徒会室の扉を開けると、ちっちゃな醒徒会長がおれを出迎えた。 「お主を醒徒会専属特殊任務係に任命するのだ!」 ぴょこんぴょこんと椅子の上で跳ねながら醒徒会長の藤御門《ふじみかど》はとんでもないことを言いだした。おれは「はぁ?」と間抜けな返事をすることしかできない。 「あなたは異能力、それに人格や戦闘センスが見込まれて八人目の醒徒会員として選ばれたのです」 おれが茫然としていると藤御門の隣に立っている副会長の水分《みくまり》さんがそう補足する。だけどそれを聞いてもいまいちピンと来なかった。 「おれが……醒徒会ですか?」 「そうなのだ。お主のラルヴァ戦の戦果を見て驚いたぞ。たった一人で巨大な怪獣を打倒したり、百万匹のラルヴァを一掃したりと大活躍ではないか」 「それで私たちが学園側に申請して、新しい役員としてあなたを迎え入れよう、という話になったのです。どうですか、私たちの仲間になってくださいますか」 水分さんはおれの手を取り、上目使いでそう言った。 こんな美人にこんなことされて断るやつなんていないだろう。勿論おれもそうだ。 「おれやります! 醒徒会の新メンバーに選ばれるなんて光栄ですよ!」 その日からおれの学園生活は激変したのであった。 「いっけー、やったー! かっこいい!」 おれは醒徒会書記である紫隠《しおん》とタッグを組み、双葉区で暴れるラルヴァや異能犯罪者を相手取って戦った。 おれの魂源力《アツィルト》を増幅させるために、紫穏はおれに抱きついた。会長と同じくぺったんこの胸だが、女の子独特の暖かな体温が伝ってきて、気持ちいい。 「ああ、危ない!」 紫穏の二の腕の柔らかさにうかれていたら、いつの間にか敵が目の前に迫っていた。敵は竜と虎とライオンと蛇と馬とカバを融合させたような巨大な怪物である。奴は何万人という人間を食料にしてきた絶対に許されない怪物だ。 だけどおれと紫穏が手を合わせれば倒せない敵はいない。 「必殺! エターナル・ルシフィック・デッドエンド!!」 無数の光弾がおれの手から飛び交い、怪物を一瞬にして蒸発させる。だが敵は死ぬ間際に最後のすかしっぺをかましてくる。 怪物は口からビームを発射したのだ。 おれは「危ない!」と紫穏を突き飛ばした。爆風がおれを吹き飛ばしたが、なんやかんやで生き延びた。 「だ、大丈夫か!?」 紫穏はおれが死んだと思ったのか、目に涙を浮かべて駆け寄ってくる。おれは指で彼女の涙をすくってやる。 「ああ、平気だ。だから泣くなよ、お前に涙は似合わねえぜ。おれはお前の笑顔が好きなんだ」 「バカバカ! 心配したんだよ!」 紫穏はぽかぽかとおれの胸を叩いてきたが、そこからは彼女の気持ちが痛いほど伝わってくる。 「悪かったよ。あんな無茶はもう――って痛っ!」 「もう喋らない方がいいってば、口切ってるみたいだから」 そう言って紫隠はおれの唇に、自分の唇を重ねた。 唖然としたおれは、まるで凍ったように固まってしまう。だけどおれとは対照的に紫穏は照れ臭そうに笑い、八重歯を覗かせる。 「あはは。あたしはちょっとだけだけど相手に触れることで治癒能力も促進できるんだ。でも、唇に触れたのは初めてだよ」 顔を赤らめているその笑顔はとてつもなく可愛くて、おれは一瞬にして恋に落ちてしまったのだ。 そうしておれは紫穏と付き合い始めた。 紫穏とラブラブな恋人生活を送っているある日、一通のラブレターが下駄箱に入っていた。 「誰からだろう」 封筒を見ても差出人の名前は書かれていない。 誰かの悪戯だろうか。おれはラブレターを貰うようなモテモテな人間じゃない。 手紙には「放課後体育倉庫で待ってます」と随分大人っぽい字で書かれていた。 おれには紫穏という恋人がいるのに参ったな……。 とりあえず丁重に断るつもりでおれは指定の場所へと向かっていった。 重苦しい体育倉庫の扉を開くと、意外にもそこには水分さんがおれを待っていたのだ。 しかも、なぜか体操服姿(ブルマ)で! 「み、みみみ水分さん! なんでここに!」 おれが驚き慌てふためる様子を見て、水分さんはわずかに微笑んだ。水分さんは日本的な美人で紫隠とはまた違う可愛らしさがある。 「手紙、読んでくれました?」 水分さんはふっと真顔になりそう尋ねた。おれはゆっくりと頷く。 「あなたが来てから私、変なんです。あなたが紫穏ちゃんと仲良くしているのを見ると、ここがチクチクして」 そう言って水分さんは自分の胸に手を置いた。ピチピチの体操服のせいで二つの膨らみははちきれんばかりに強調されていて、もしかしてノーブラじゃないのかって思うほどに揺れている。 見てはいけないと思っていても、ついつい視線が胸にいってドギマギしてしまう。 「こういうことを殿方に言うのは初めてなので上手く言えないのですが、私はあなたに恋をしてしまったようです」 ぽっと頬を赤くして水分さんは告白した。 「水分さん。気持ちは嬉しいですけど、おれには紫穏が――」 と言い終わる前に、水分さんはおれの胸に顔をうずめてきた。ふんわりとした彼女の黒髪の香りが鼻を刺激し、彼女のたゆんっとした胸がおしつけられる。 「ああ、ダメです水分さん!」 「いいの。わかってます。でもね、私はあなたの愛人でもいいから……紫穏ちゃんの次でいいから私を好きになってほしいんです」 そんな風につつましげに言う水分さんがとっても愛おしく、おれは思わず水分さんを抱きしめた。水分さんは何匹ものラルヴァを倒してきた最強の異能者の一人だが、こうして触れてみると彼女の肉体は細く、肩は小さくて普通の高校生の女の子だということがわかる。 「ああ、あなたにこうして抱きしめてもらうことを、夜毎いつも考えていました。もう一人で寂しい夜を迎えるのは嫌なんです」 「水分さん……」 おれは水分さんの濡れた唇を奪い、そのまま体育倉庫のマットに沈んでいった。 水分さんにたっぷり搾り取られた後、おれは忘れ物を取りに醒徒会室へと向かった。部屋にはほかの役員はいなかったが、会長だけが椅子に腰かけていた。 会長はおれを見るなりぴょんっと椅子から飛び上がった。その拍子にスカートがめくれ、黒いガーターのパンツが目に入ったのは内緒だ。 だがそんなパンチラのインパクトを吹き飛ばすようなことを、突然会長は言いだした。 「おい、お前は私と結婚することになったのだ」 「…………」 あまりにあまりなことで、おれは正直ただのたちの悪い冗談だと思った。どこかにどっきりカメラでもあるのかと辺りをうかがう。 「何を黙っておる、返事をするのだ。藤御門財閥はお前のような優秀な人材を内部に取り込みたいらしくてな、私にお前と婚約するようにと言われたのだ」 「はあああ?」 「なんだお前、私じゃ不満か?」 「え? いや、その」 正直なところ、おれはロリコンじゃない。 いくら会長が可愛いと言っても、それは子供的な(中一だけど)可愛さでしかない。パンツが見えても全然興奮しない。 悪いけどここはきっぱりと断るべき…… 「もし私の婿になるなら、藤御門財閥の資金を自由に使えるぞ」 「おれと結婚しましょう会長!」 そうしておれは会長と婚約し、会長が十六歳になったら結婚するという話になった。 いまはちんちくりんでも、いずれは会長も美人でグラマーになるに違いない。成長度という意味では紫穏や水分さん以上だろう。 そして何より藤御門の傘下に入るということは将来が約束されるということだ。この就職難で嫁と職が一緒に手に入るなんて感動的だ。 そうしておれは恋人の紫穏と、愛人の水分さんと、婚約者の会長と楽しく双葉学園での学園生活を満喫していった。 醒徒会に入ってからは男の友達もできた。 同じ醒徒会役員だが、かっこよくて頼りがいのある龍河《たつかわ》先輩にはよくしてもらい、無口だけど案外いい人のルール先輩からはイジメっこから助けてもらい、金ちゃんには金策の仕方を教えてもらった。早なんとかくんはいつもおれの昼飯を買ってきてくれたり、ごみを捨てに行って来てくれる。 おれは醒徒会に入ってから幸せになった。 それからもおれはラルヴァとの戦闘で大活躍し、みんなから信頼され、愛される存在になっていった。 「ばんざーい! ばんざーい!」 醒徒会のみんなはおれを褒め称え、胴上げをしていたのだった。 ○ ● ○ ● ○ 「はっ!」 っとその場にいる|七人全員《、、、、》が同時に目を覚ました。 珍しいことに、醒徒会役員の七人は、みんな醒徒会室で居眠りしてしまっていたようだった。昨晩徹夜で作業を続けていたせいだろう。 だが起きたばかりだと言う彼ら七人の顔色は悪く、青ざめている。 七人はお互いの顔を見て、ぽつりと呟いた。 「最低な夢だった……」 完 トップに戻る 作品保管庫に戻る
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ラノで読む(推奨) 第二話前編へ戻る 幕間 一日前、双葉学園内生徒指導室 放課後、人が増えてきた学外とは対照的に、生徒が去っていって少し寂しくなった校舎内。その中にある『生徒指導室』に、二人の男女が座っていた。男が生徒、女が教師といった風体である。 学校指定の学ランを着て、扉側に座っている男子には、斯波諒一《しば りょういち》。スーツにファッションメガネという姿をして、窓側に座っている女性には、木津曜子《きづ ようこ》という名前があり、世間的には生徒と担任教師、さらには従姉弟という関係となっている……が、実のところ、二人は科学者集団『オメガサークル』の構成員であり、その名前よりもより強く自身を表すコードネームがある。 「それで、アンダンテ。急な任務って何だ?」 「学内では木津先生って呼べって言ってるでしょ? ここなら大丈夫だけど……任務は、この少女に関することよ」 アンダンテと呼ばれた女が、バッグからホッチキスで挟まれた数枚の書類を投げ渡す。 「三年G組……この三年ってのは、中等部と初等部、どっちだ?」 「高等部よ」 アンダンテの一言で、少年がズッこけた。容姿と実年齢がまったく異なる生徒が、この学園にはそこそこ多い。それを、すっかり忘れていたのだ。 「……で、その『先輩』がどうしたんだ?」 「数日以内に、その少女に『襲撃者』が現れる。襲撃者が何者かを確認するのが、オフビート、あなたの任務よ」 淡々と任務を告げるアンダンテだが、短い指令のなかに、いくつかの疑問点をオフビートと呼ばれた少年は見つける。しかし、それをストレートにぶつけるような事はしなかった。あくまで『任務に必要なこと』と匂わせるように、言葉を選んで質問をする。 「そいつ、他に監視はついてるのか? 他の奴が居たらやりにくいかもしれない」 「居ないわよ。少なくともウチで、私の知ってる限りはね。目標としての優先度はあなたの担当より数段下、聖痕《スティグマ》も狙ってるそぶりは無い」 オフビートの眉間に皺が寄るが、アンダンテにそれを気にする様子はない。次にオフビートが聞いた内容は、少し迂闊だったかもしれない。 「それで、俺にその指令が来た、ってことは、それなりに意味があるんだろ?」 「あなたの顔の広さと、防御力ね。『襲撃者の正体を知る』のが目的だから、過剰な攻撃力は必要ないし、あなた、意外と顔広いでしょう? 襲撃者を見たことがあるかもしれない。もっとも、一番の理由は『一番近くで暇そうな任務してたから』だけど」 「……最後に、その暇そうな任務についてだ。襲撃者ってのは、伊万里を襲う可能性があるか?」 「上のほうに入ってきた『確かな情報』だと、リストの下の方ね。数日中は無いだろうから、安心なさい……あ」 アンダンテが『言わなくていいことを言った』ことに気づいたのはすぐだが、もう後の祭りだ。気を取り直して、言葉を続ける。 「……別にこの子の生死は問わないから、確認したらすぐ撤収していいわよ。肝心なのは、しっかり報告をすることよ。いいわね」 Scene Ⅳ 昼、双葉区住宅街 「……駄目ね、専門でもない事に顔を出しちゃ」 壁を背にして、遊衣は後悔していた。さっきまでの行動は、手落ちが多すぎた。逃げるなら逃げる、向かっていくなら向かっていくで、ハッキリするべきだった。もっとも、相手は異能者なのだから、ここは人影を確認して即逃亡、が最善手だっただろう。そういう所に気が回る、また、そういった事によく巻き込まれていた夫が亡くなって、ここ数年そういった事態が発生しなかったことは言い訳に出来るかもしれない。 (……言い訳しても、どうしようもないけれど) 窓から入ってきたのが少女の味方でなくて良かった、と少しだけ安堵するが、彼女達が巻き込まれている状況自体には、あまり変化が無い。 彼女達の目の前で、異能者同士がぶつかり合っている。遊衣と、その横に居るロスヴァイセには、流れ弾を回避する力すら無いのだ。 少女が、振り下ろしていたミンチドリルを引く。金棒のトゲがいくらか『削られて』いた。あのまま叩きつけていたら、その全てが削られるだけではなく、その巨大なドリル自体が消滅していたかもしれない。そこはオフビートが行った『芸当』の連続使用時間との勝負となるが、それに挑む賭けを、少女は選ばなかった。 「『知ってるかも』とは言われてたけど……アル・フィーネ、お前だったとはな」 「その名前で、私を呼ばないで!!」 アル・フィーネと呼ばれた少女が、ドリルを横薙ぎに振るう。これをオフビートは、今度は異能を使わずに後ろへ跳んで回避した。少女の動き自体は緩慢だが、一度でもそれに触れればタダではすまない、という威圧感がある。 「そこの人!! あんたは『安達凛』じゃないな!?」 「え!? ……娘は今、外出中よ。どこに行ったかは聞いてないし、泊まっていくとも言ってたわ」 オフビートの問いに、遊衣は平然と嘘を混ぜて答える。横でロスヴァイセが驚いた顔をしているが、幸いアル・フィーネはその顔を見ていない。 「と、いう訳だ。目標が居ないのにここで戦い続けるか、街をむやみに探すか、退くか。前二つを選ぶなら、俺は邪魔をする」 オフビートは、暗に撤退をすすめる言葉を少女に放つ。無論、三つ目を選ぶとしたらこっそり後を追うつもりだ。アンダンテの言葉尻をとらえるなら、放置すれば、彼の監視対象兼『恋人』である、巣鴨伊万里《すがも いまり》に危害が及ぶかもしれないのだ。その芽は早いうちに摘んでおきたい。 「なら、目標が帰ってくるまで待ちます」 「……え?」 「私は、恩を返さなきゃいけないんです、私を救ってくれた人に。その邪魔をする酷い人は、みんな死んじゃえばいいんです!!」 思惑の外れたオフビートの頭上に、再び金棒が振り下ろされる。それを両手でなんとか受け止めたオフビートが次に見たのは、ミンチドリルから手を離し、虚空から別の武器……長い柄の先に刃物がついた、長刀《なぎなた》……を取り出した、アル・フィーネの姿だった。 「ロスヴァイセ、状況は!?」 『男の子が乱入して防いでくれてますが、手数で押されています』 「二階堂さん、そっち右!!」 「ああ、分かった」 ちょうどアミーガに来ていたおやっさんの知り合いと、おやっさんとバイクの話をしていた高等部の少女……が足代わりに使っていた青年の二人が駆るバイクに乗り、家への帰路を急ぐ安達久、凛の姉妹。永劫機の契約者である久は、ロスヴァイセと連絡を取り合い、現状を確認している。二台のバイクが連れ立って走っている場面は、そのバイクの巨体も相まって、日本とは思えない。 「ここで止めて!! これ以上行くとバイクの音でバレちゃう」 「ああ、何か手伝える事はあるか?」 「いえ、大丈夫です。家のことですから」 自宅から一ブロックほど離れたところでバイクから降り、後は走りで自宅を目指す。 「けど、姉さんが狙いだなんて……」 「何でだろね? 久《きゅー》くん、ママに聞いて欲しいことがあるんだけど、ロッセを通して聞いてもらってもいい?」 「……?」 オフビートとアル・フィーネの戦いは、膠着していた。 横薙ぎに払われた長刀を、金棒を投げ捨てながら危ういところで回避したオフビートは、その後も色々な武器を虚空から取り出しては振り、無理とみるや叩きつけて別の武器を引っ張り出すその少女に押されっぱなしだった。防御力は人並みのように見えるが、ポケットのナイフを抜いて攻撃にまわる余裕が無い。 一方のアル・フィーネも、色々な攻撃を繰り出し、その悉くを防がれているせいで、精神的に押されていた。何か決め手が無い限り、一気に押し切ることは不可能だ。 互いが互いの異能を知っており、その上で戦闘に突入したが故の千日手。均衡を崩すには、どちらかの体力、もしくは集中力が切れるか、第三者が介入するのを待つしかない。 アル・フィーネの視界に、何かに頷いてから部屋の外へ駆け出すロスヴァイセの姿が映った。追おうとすればオフビートの追撃を受けるのは必至、目で追うだけで、すぐに視線を戦闘相手に戻す。彼女……資料に無かった人物だが……は、抹殺対象には入っていない。 「お前の異能……『F・I・F・O』だったか、そんなに大量の物を格納できたのか?」 攻撃を捌いたつかの間、オフビートがそんな言葉を洩らす。 オフビートは、共同演習で彼女の異能と、その使い方を知っていた。それはアル・フィーネも同様である。 彼が知っているアル・フィーネの異能は、いわば『出る順番が決まっている四次元ポケット』だ。彼女の足元に発生する異次元へのゲートへ物を投げ込んでおくと、それが異次元に格納される。取り出すときは頭上にゲートを発生させることで、落ちてくる。ただし、格納できる物体のサイズ、重量にはかなり厳しい制限があり、取り出す際も、入れた順番でしか出てこないという欠点がある。さらに、オフビートが知っているアル・フィーネは、それほど筋力がある方ではなかった。初めに振り回していたドリルなど、彼が知っている彼女なら持ち上げることすら困難だっただろう。 「私は変わったんです!! どうしようもない世界から私を引き上げてくれた、あの人のお陰で!! そ、その人の邪魔をするひどい人は、みんなみんな死んでください!!」 次に彼女が引っ張り出したのは、鎖つき鉄球。室内ということもあり振り回す半径は小さいが、それでも直撃すればただでは済まない。 「……精神の高揚と、異能強化を同時に行う薬物の投与、かしら?」 遊衣が、アル・フィーネの様子を見て呟く。その様子を、臨戦態勢のまま他の二人が視界に捉えた。 「筋肥大化等の処置は受けてなさそうですし、精神を無理やり高揚させ、実際以上の筋力を発揮、同時に異能も性質はそのままで、スペック強化を実現する……兵器開発局で、そんな薬物の研究をしていたと聞いたことがあります」 「……それって、ヤバいんじゃないのか?」 実感が篭ったオフビートの疑問符に、遊衣が無言で頷く。そんな二人を、アル・フィーネはこちらも無言で睨んでいた。 「私が知っている限り、異能の人為的な強化には少なからぬリスクがある。薬物が切れた途端に、激痛と異能の反動で、という事も……」 「私が弱いのがいけないんです!! 私が弱い異能と弱い身体しかないせいで……!!」 何か逆鱗に触れたかのように叫びだすアル・フィーネだが、それに介せずオフビートが言葉を重ねる。 「それはいいけど……お前、種切れだな?」 「!?」 「ひたすら攻めを継続して、こっちが攻めるチャンスを潰す、みたいな感じでやってたのに、急に攻めが止まった……次に出てくるのが最初に出してたヤツになったか、そうでなくても攻めに使える物じゃない。そんなところだろ?」 横で見ている遊衣には分かりやすいが、アル・フィーネが武器を引き出すときには若干のタイムラグがある。一つ一つの武器を習熟していない彼女は、相手に武器を受け止めさせた隙に新たな武器を引き出す、ひたすらごり押しの戦法を採っていた。つまり『次が武器でない』状況では、迂闊に次を繰り出すことが出来ないのだ。 だが、ここでオフビートは不用意に突っ込めない。彼にもまた、異能を連続で使用した反動が来ていた。頭が痛み、集中を切らしてしまえばその瞬間にも、彼の手の平から出ている高周波の盾は消え去ってしまうだろう。そうなってしまえばやられるのは自分である。 ここで再び、膠着状態が……先ほどまでの動きがあるものではなく、動きが無い、にらみ合いの状態が訪れた。そして二人は、その空間に現れた変化を気づくことができなかった。 その均衡を破ったのは、凛とした叫び声。 「オフビートくん、かわしてよ!!」 部屋の扉の向こう側……アル・フィーネが背にして、オフビートからは丸見えのその位置に、先ほど遊衣が捨てた短機関銃を持った凛が立ちふさがる。総重量が3kg程度のそれは凛でもしっかり持つことが可能であり、その銃口は、新たな弾薬を装填して、背を向けているアル・フィーネをまっすぐ睨みつけていた。 再び、嵐のような叫び声が部屋を埋め尽くす。オフビートは横にジャンプして難を逃れ、一瞬反応が遅れたアル・フィーネも、鉄球を放った反動で跳躍、辛うじて弾丸の雨を回避した。彼女が次に『出せる』ものは、最初に出した鉄板であり、その時と同じように盾として使う方法もあった。だが、床が抜けてしまうほどの重量があるソレを出す危険を冒す事はない。彼女が跳んだ先には、反撃のための武器……異次元に戻さず床に放ったままのミンチドリル……があり、それを目の前に出てきた目標の頭へ振り下ろせば、それで彼女の仕事は完了するのだ。 「おま……!!」 「ごめんなさいっ!! 死んでください、安達凛さん!!」 二人が跳んだ方向は正反対、オフビートがアル・フィーネを取り押さえる前に、彼女の金棒が凛の頭を打ち砕くだろう。 慌てたオフビートが凛の顔を見ると、何かを確信しているかのような自信に満ちた表情で、部屋の奥……否、窓の外を見ていた。 アル・フィーネが扉の目の前に来るのと、弾を撃ち尽くした筈の銃口が再び火を噴くのは、ほぼ同時だった。 「っ……!!」 突然のことに、身体をよじって回避するのがやっとだった。それでも腹部と腕を数発かすめただけで済み……ただ、それに付随する状況の悪化は、それだけでは済まなかった。 「今のうちっ!!」 体勢を整えたオフビートが踏み込み、アル・フィーネの手を蹴り飛ばした。彼女の手からドリルがはじけ飛び、床に転がる。 「痛っ……!?」 床を転がっているソレは、銃を捨てた凛が持ち……いや、持てなかった。両手で持ち上げようとするも、重量に負けてそのまま地面に置いてしまう。 「うわ、これ重い……よく振り回せるよね、こんなの」 「さあ、観念してもらおうか? 出来れば、目的から何まで洗いざらい話して欲しい所だが……」 オフビートがナイフを取り出しつつ、アル・フィーネに迫る。機関銃を鈍器代わりに構える凛が傍らに立ち、逃げ出せそうな隙は見つからない。 「しまった……!!」 「大丈夫そう、かな」 『はい、上手くいって良かった……』 木の上に座って窓を見ている久と、膝をつく体勢をとって出来るだけ目立たないようにしているロスヴァイセ……の、ロボット形態。その能力が発揮される際に発生する『霧』は、単に能力範囲を示すだけであり、空間的に密閉されていても、そしてロスヴァイセからその場所が見えなくても、『時間重複』というその能力を使うのに支障はない。 「……まったく、姉さんもあぶなっかしい事するんだから……」 中の様子を見て、ロスヴァイセの特殊能力を発動させる。『凛が放った銃弾』を再現させ、飛び出してきた襲撃者に、再度の銃弾をぶつけた。それは有効打にはならなかったようだが、助けに来てくれた少年……オフビートがそれに合わせてくれ、なんとか襲撃者を取り押さえることができた。 「……けどこれ、重複の能力さえ使えれば良かったよね」 『元々この身体は、対大型ラルヴァ用ですから……あれ、どうしました?』 「いや……あれ?」 ロスヴァイセと雑談モードに入っていた久だが、唐突に頭の上を見上げ、つられて上を見上げたロスヴァイセと共に、驚愕の声を挙げた。 『あ!? あれって……』 「つつっ……何だ!?」 「オフビートくん、だいじょ……ええ!? あわわ……」 地に伏せたアル・フィーネを守るように、黒い獣が立ちふさがる。窓から飛び込み、目の前のオフビートをはじき飛ばした。庇われた側のアル・フィーネは、不服そうな、しかし何とかなったという表情をしている。 「っ……見て、ました?」 黒い獣は何も言わずにアル・フィーネを咥え、再び窓から飛び出して行ってしまった。その姿には、明らかに何者かが指示をする気配が感じられる。 「待てっ!!……あー、行っちまったか……」 「あ、あいつ確か、この前ママを襲った……」 「……あれ、もしかしてラルヴァではなくて、異能者……?」 何のためらいもなく逃げ出した獣を追いかける隙は無く、オフビートが追いかけようとするも、その時には既に屋根伝いに、はるか遠くへ去って行ってしまっていた。 「姉さん、大丈夫!?」 「あ、久《きゅー》くん。うん、なんとかー……」 「……?」 慌てて部屋に駆け上ってきた久に笑顔で手を振って答える凛。そしてその久を見て、ハテナマークを浮かべたオフビート。 「えっと、オフビートさん。ありがとうございました」 「いや、それは良いんだけど……お前、どこかで会わなかったか?」 オフビートの台詞に一瞬、凛はビックリ顔を見せ、遊衣は顔を背ける。幸い、久はそっちを見ていなかったため、気づかなかった。 「いや、僕は覚えが無いです。おかあさんか姉さん、何か……ん、何か変なこと言った?」 「え、ええ? そんなこと無いよ!?」 「オフビート君、だったわね? 貴方はあの襲撃者について、何か知っている?……いいえ、『どこまで教えられている?』って聞いたほうが良いわね」 自身に向けられた質問はスルーして遊衣が問いかける。凛の反応と共に、あまり触れられたくない様子がバレバレだ。 「せいぜい、そこの子……先輩が狙われてるってのと、同じように狙われてる奴がそこそこ居る、って事ぐらいだな。俺が下っ端中の下っ端ってのは、だいたい予想できるだろ?」 「まあ、ね……あなたが組織側、で大丈夫なのね? さっきの口ぶりなら」 「多分な。『上司』ごと裏切ってたら、流石に分からない」 Scene Ⅴ 夜、双葉区住宅街 「置いてきた荷物は、明日の帰りにでも取りに行った方がいいかなぁ……」 その夜、襲撃者の去った家で、暢気に夕食を食べる四人。ドアは遊衣のツテであっという間に直ってしまった。双葉学園にある何番目かの建築部が行ったものらしいが、凛と久はその人達を知らなかった。 「そうね、流石に今日取りに行くのは危険すぎるわ……連続で襲撃が来るかは分からないけれど」 「…………」 普段はいつも会話の中心にいる凛が俯いているせいで、食べ終わった後も食卓が静かだ。 「……姉さん?」 「ん? あー、何でもないよ、久《きゅー》くんは気にしないで」 「……ごめんなさい、あんな事をさせて」 遊衣が、唐突にそんなことを言う。彼女を戦いに参加させてしまった事か、その際に『人を撃つ』という経験をさせてしまった事か。 「ううん。あいつ、わたしを狙ってたんだから仕方ないよ。それより、ママが無事で良かった」 気丈そうに手を振る凛だが、その顔は冴えない。 「……二人とも、何も聞かないのね」 重そうなため息をついて、遊衣が呟いた。 「まーね、知っておきたいなとは思うけど、その時になったら、ママはちゃんと教えてくれるでしょ? なんでへっぽこな異能しかないわたしを狙うのか、とかも」 「さっきの人の話だと、僕の記憶が無い昔に、あの人達も関係してそうだよね……まあ、姉さんと同じ、必要になった時には。それまでには心の準備しておく」 「皆さん、食後のお茶が入りましたよ。ほら、暗くなってちゃいけません」 奥からロスヴァイセが顔を出してきた。あまり話は聞いていなかったようだが、心配そうな様子は十分見て取れた。 「そうね、二人には心配かけるわ……ごめんなさい」 「ママはそんなの気にしなくていーの。悪いのは襲ってくる奴なんだから、これから来たらどうしようとか、そういう事考えよ」 「いざという時は、私がもっと頑張らないといけませんね。頼りにしていてください、長女なんですから」 凛の言葉に呼応するように、両手をぐっ、と握ってロスヴァイセがアピールする。いつの間にか、彼女も家族の一員として、普通に馴染んでいるようだった。 その夜、久は妙な感覚で目を覚ました。さっきまで、どこか別の場所を歩いていた気がする。真っ白くて、何も無い場所を。そして目を覚ましたとき、ここが現実なのかどうか自信がない。少なくともこの三年間、そんな気持ちになった事はなかった。 「……おかしいなぁ……」 眠気が残ったままの久が、部屋を出て台所へ降りようとする……と、すぐ隣、凛の部屋から、まだ光が漏れている事に気づいた。 「……姉さん?」 どうしても気になってしまい、ドアを叩いて中を覗く。 「…………あ、久《きゅー》くん。どうしたの? こんな夜中に。怖い夢、見たとか?」 そちらに気づいた凛が、久に向けて笑顔を向けた。何かを抱えた、難しそうな表情をして。 「夢……あ、そっか。そうだよ、夢だ!!」 「へ、夢?」 一人合点している久に、目を点にしている凛。その凛も、少し経ってようやくその意味を理解した。 「……そっか!! 久《きゅー》くん夢見たの!? それで、どんなのだった?」 「いや、よく覚えてない」 「あらら」 威勢良くコケる素振りを見せた凛に、久が心配そうな声をかける。 「……姉さんは、大丈夫? さっきまで、寝てなかったみたいだけど」 「うん……大丈夫って、ママの前では言ったけどね。やっぱ、キツいかな」 そう話し始める凛の声に、先ほどまでの強い成分はあまり含まれていなかった。 「ユリカちゃん……あ、今日行ったあの喫茶店で逢った友達ね……が狙われてるのは、すぐ近くで見たことあるし、ちょっとした事件に巻き込まれたことはあるけど、わたし自身が狙われるような事って、想像もしたこと無いから。へっぽこな異能しか無いからね、わたしって。だから、これから何が起こったとき、大丈夫なのかな……って」 その縮こまっている様子は、先ほどまでの皆を先導する光を放った、明るい少女のものとは程遠い。母猫に置いていかれて震えている、小さな仔猫のように見えた。 久が凛の枕元に座り、その胸元で組んでいる両手を軽く引っ張って、掴んだ。 「……僕は姉さんみたいに、無責任な『大丈夫』は言えない。けど、姉さんが頑張ってるときに近くに居ることはできるし、姉さんに悪いことが襲い掛かっても、みんなで力をあわせれば、きっと乗り越えられると思う……だから、姉さんには、笑っててほしい。そうすれば、全部が上手くいくと思える」 久を見ていた目の奥に固まっていた不安が、みるみるうちに溶けていくようだった。そして最後には、いつもの、いたずらっぽい表情の凛に戻っていた。 「久《きゅー》くん、どこでそんな言葉覚えたの? 笑っててくれって、まるでくどき文句みたいだよ?……でも、ありがと。ついでにもう一つ、お願いして良いかな?」 「うん、何?」 「『絆』が、欲しいな……わたしと久《きゅー》くんを結ぶ、きょうだい、っていうのとは、別のものが」 「……いや、そういうのはいいから」 「ふえーん、久《きゅー》くんがノッてくれないー……」 いつもどおりの漫才を繰り返しながら、二人の、そして一家の夜は更けていく…… Scene Ⅵ 夜、双葉区某所 「以上、報告終わり。まだ何かあったか?」 『無いわね。お疲れ様、以後通常任務に戻って、別命あるまで待機。以上よ』 通信を終え、オフビートが携帯端末を仕舞う。余計な手出しをした事について、上司であるアンダンテは何も言わなかった。もっとも『何かしてもいい』的なニュアンスを漂わせていたのは向こうが先だったが。 彼女の話では、安達凛を襲った襲撃者……アル・フィーネは、数週間前に上司が何者か、恐らく敵対組織である聖痕《スティグマ》に拠点ごと抹殺されて、本人も行方不明となっていた。状況から見て、誘拐されたか『跡形も無く消された』かのどちらかと見られていたが、その彼女がなぜ現れ、しかもオメガサークルでは監視対象を超える存在ではない『死の巫女』……その名をオフビートが知っているか、知らないかは分からないが……を襲撃したのか。その部分は謎に包まれている。 そして最後に乱入してきた黒い獣、これについてもアンダンテは何かを知っている口ぶりだったが、それをオフビートに洩らすことは無かった。ただ空気を察するに、アル・フィーネと同様『居なくなった筈の者が現れた』といった様子が感じられただけだ。 結果的に想定以上の情報を手に入れたとはいえ、組織から報酬がある訳でもない。オフビートもそれは承知しており、自身が求めるものを手に入れただけ、という印象がある。 (……そうだ、思い出した。安達凛の弟) 本来考えるべきことを脇において、オフビートは昼間に感じた違和感を辿っていた。 (外見で似てるのは髪の色だけで、髪型も、体型も違う、サングラスをかけてる訳でもないし口調も全然違う。でもあいつは……) 彼の中で、安達久と、ある人物のイメージが重なる。 (醒徒会のエヌR・ルールとイメージが被るんだ……けど、なんでそう思うんだ?) オフビートは、そこで考えを切り上げた。考えても仕方の無いことだし、目下の自分には関係ない事だからだ。 安達凛、そして安達久をめぐる事象の針はまだ回り始めたばかりだが、容易に止められるような物では、なくなっていた。 トップに戻る 作品保管庫に戻る
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ラノで読む 「月の軌道がずれ始めている?」 「えぇ、肉眼では判らない程度ですが」 ここは双葉学園天文学部が存在する大学棟のある一室。 そこで星見空輝(ほしみぞらひかる)が月の観察をさせていた教え子から、信じがたい観測結果を聞いたのは、時計の針が午後10時を回った頃の話だった。 「すまない、言っている事がよく解らないのだが……失礼だが、何かの観測間違いではないのかい?」 「私もそう思って何度も計算し直したのですが……」 困惑気味に観測データを差し出す女子生徒からデータを受け取った輝は、早速パソコンにそのデータを打ち込み始めた。 輝の横で少しおどおどしているその女子生徒は、頭も良く計算を間違うような事は今までなかった生徒だ。 まして、観測結果から月の軌道を正確に計算するなど、天文学部に入って3年目になる彼女にとってそれ程難しい事では無い。 輝は天体の軌道計算の練習問題として、解が既に求まっているこの課題を彼女に出したのだから。 その彼女が計算を誤ると言う事は考え辛いと思いつつも、輝は慎重にデータを打ち込んで行ったが…… 「……ずれている。近づいている」 「天体望遠鏡の故障でしょうか? でもちゃんとプログラム通り定点観測していた筈なんですけど……」 機器の異常でない事はわかっている。周囲の星々との相対位置から月の正確な位置を算出しているのだ。 観測映像に狂いは無く、望遠鏡が多少目標地点からずれた方向を向いていたとしても、問題なく計算できるはずなのだ。 だと言うのに計算すると、確かに月が既存の計算結果より近づいているとしか求まらない。 「原因はわからないが、きっと機器の故障だろう。この事はもう気にせず次の課題に行きなさい」 「は、はい。分りました」 この日、取り敢えず適当な理由をつけて生徒を帰らせた輝だったが、知人の天文学者に電話をすると他の天文台でも同様の計算結果が出始めており、混乱していると言う事が分った。 天文学会のホームページに行くと、既にプロ・アマ問わず掲示板はその話題で持ちきりとなっている。 「大変な事になるぞ、これは……」 本来、月は年3.8㎝と言う極僅かな距離ずつ遠ざかっている。それは月の公転による遠心力が地球と月の間に働く重力より勝っているからだ。 しかし今、現実に月は地球に近づいてきている。それは力学的にありえない事だった。 もしこの観測結果が本当だとすれば、今地球には未曾有の危機が起こっているのかもしれない。 いや、このまま地球に近づいて来たとすれば、地球上の重力分布や潮汐力の変化、月の重力によって引き起こされている様々な現象が大変な影響を受ける。 それこそ天変地異のような……。 「……ふぅ」 ここまで考えが及んで輝はふと溜息をついた。自分が考えても仕方の無い事だ。 この事は明日にも新聞やニュースになって大問題となるだろう。いや、逆に問題が大きすぎて公表されないかもしれない。 いずれにせよ人の口に戸板は立てられない。現在のインターネット社会では、この事が世界中に広まるのも時間の問題だ。 「ただの大学助教授でしかない私がどうこうできる問題でもない、か」 時刻は日をまたぎ、深夜1時になっていた。 明日は朝一の9時から天文学の講義がある。 天文学者の端くれとは言え、一講師に過ぎない輝は、この問題を何処かの誰かの手に委ねる事として帰路に着いた。 健康に悪いと思いつつ、空いた小腹を満たす為コンビニで菓子パンと紅茶を買って帰る。 流石に外を歩いている者もほとんど居ない深夜の道。 少しばかりの人寂しさを感じていた輝が、奇妙な人物に声を掛けられたのは、もうすぐ職員寮に着く僅か100m前の場所だった。 「先生」 「っ!?」 突然誰もいないはずの道で誰かに呼ばれた。 「先生」と言ったその声は、自分に掛けられたものなのか?輝はその場で立ち止まり警戒するように周囲を見回した。 しかしやはり辺りには誰もいない。姿の見えないその声に輝は一抹の不安を感じた。 輝は異能力を持っていない。護身用の武器も携帯していない。 声の主が何者であるのか分らないが、もし万が一ラルヴァなどであった場合、輝には生き残る術がないのだ。 「だ……誰かいるのですか?」 恐る恐る姿の見えない相手に声をかけてみる。 それで別に何がどうなると思ってした事ではなかったが、声を出す事は僅かながら恐怖心を押さえる事に貢献したようだ。 輝は少し冷静になって周囲を見渡しやすい道の真ん中に移動して待つ事にした。 「先生」 程なく、先程の声がもう一度帰ってきた。今度は心の準備をしていたお陰で冷静になって聞く事が出来た輝は、その声に奇妙な違和感を覚えた。 (この声は女性だろうか? 男性だろうか? 中性的な声だ……しかし美しい) その声と共に電柱の影から現われた人物は、羽織袴を着て髪をポニーテールに結った細身の人物だった。 顔はやはり中性的で、美しいが今一男とも女とも言い切れない。 体格も男と言えば男にも見えるし女と言っても通用するような細身で、胸も有るようにも無い様にも見えた。 「先生に助けて貰いたいんだ」 「助ける……あなたの事をですか?」 こんな時間に今時コスプレ紛いのこんな恰好で人を待ち伏せているなど、どう考えてもまともではない。 しかし目の前の相手には不思議な魅力があった。変人だと逃げてしまえない不思議な魅力が。 だから輝はこの時聞き返してしまった。それが後に自分をとんでもない事件に巻き込む事になるとも知らずに……。 「いえ、この人工島を」 「双葉学園を!?」 星見空輝は異能力者ではない。ただの双葉学園大学部で働く天文学部助教授だ。 多くの天文学者と同じように、理数系で理論的なのに夢見がちでロマンチスト。今年でもうすぐ三十路を迎えようと言うのに結婚もしていないしがない講師。 一人暮らしが長い為家事全般は出来るが、天文学とそれ以外これと言った特技も無い。 「ちょっと待ってくれ! 双葉学園を助けるとはどう言う事だ!? 何故何の能力も持たない私にそんな事を頼む?」 そんな男に何故双葉学園を救ってくれなどと頼むのか?この人物の本当の目的とは何なのか? 「君は一体何者なんだ!?」 輝は聞いた。目の前の美しい中性的な人物に。 答えが帰ってくるとは限らないと考えていたが、その答えは案外簡単に相手の口から紡がれる事となった。 「私は天津甕星(あまつみかぼし)。星を司る神だよ」 この学園島を賭けた星をめぐる事件が、今静かに幕を開いた。 【永遠の満月の方程式 -序-】 「それでは本日の最高気温です。本日は全国的に気温が上がり、3月上旬並みの温かな一日と――」 時刻は朝7時。 いつもより遅めの朝食を取りながら、輝はテレビで朝のニュースを観ていた。 バターをたっぷり塗ったハムトーストを頬張りながら、片手でリモコンを忙しなく操作する。 NHKから民法、地方局、様々なチャンネルを回しながら『月の接近』について報じられていないか探しているのだ。 そして、その机の真向かいで図々しく朝食を取る者がいた。 「いつまで私に付き纏うつもりですか?」 「先生が助けてくれると言うまでだよ」 昨夜輝が出会った神を名乗る中性的な人物『天津甕星』。 輝が断ってからも「助けてくれるまで頼み続けるよ」と言い勝手についてきてしまったのだ。 勿論、こんな得体の知れない人物を無用心に家に上げる輝ではない。 しっかり断って家に入れないよう鍵をかけて寝たはずなのだが、朝起きるとどこから侵入したのか机に座り、おりおはようより先に例の事を頼んできたのだった。 輝も流石に恐くなり、トイレで110番通報してみたのだが何故か一向に繋がらない。 不思議に思っていると、トイレの外から「今朝は事件が起こって電話が通じなくなると知っていたからね」との声が聞こえ、通報を断念したと言う訳だった。 「何度も言っているでしょう、私は何の力も無いただの一般市民なんです。そう言う事は異能力を持つ生徒にでも頼んで下さい」 「私の『星見』であなたが助けてくれると出たんだ。間違いなく先生が私の救い主だよ」 そして本日、何度目かの押し問答を終え仕事にも出なければならない輝は、取り敢えず今のところ害の無い天津甕星を放って置いて通勤の準備を始めた。 (それにしても……) テレビの選局をNHKに合わせ輝はリモコンを置いた。 (どのチャンネルでも月の接近について報じていない。やはり問題が大きすぎて報道規制が敷かれたのか?) やはりどの局にチャンネルを回しても月に関しては一切触れていない。 今朝起きて見た天文学会ホームページの掲示板からも、昨夜見た書き込みは消されていた。 不気味なほど早い対処だが、この事が公になれば世界は大混乱になるだろう。そして何より、そこから異能力やラルヴァの事が知られてしまえば一貫の終わりだ。 おそらく国による物であろうこの見事な対応も、事の大きさから鑑みれば当然と言った所なのだろう。 輝がそんな事を考えていると、向かいでパンを食べていた天津甕星が口を開いた。 「この事は2週間後、月の大きさが誰が見ても明らかに大きいと感じるようになるまで公表されないよ。その事も分ってる」 まただ、と輝は思った。 昨夜から天津甕星は未来の事が分っている様にものを言う。それは星を見て未来に起こる事を知っているからと言うのだが……。 「あなたは占い師か何かなのですか?」 占星術と言う物がある事は知っている。 しかし輝は、基本的に占いなどによる未来予知が出来るなどと非科学的だと思い信じていないし、第一これほどの精度を持って細かく知る事が出来るなど到底信じがたかった。 ただしこの世界には異能力やラルヴァと言った非科学的な存在が現に存在している。 輝は自分なりに、この目の前の神を自称する人物も何かのラルヴァか未来予知の異能力者か――そう思っていた。 「似たようなものだよ。ただし、私の星見は占いと言うより予知や予見に近いものだけどね」 やはりそう言う能力か、と輝は思った。そしてだからこそ譲れないものがある。 異能力と言う理不尽な力によって未来を知っているのなら諦めようもあるが、それが星を見て知る、さも技術か知恵のように言われてはどうにも納得できないのだ。 「私も職業柄毎日星と睨めっこしていますが、規則性を持って運行される星々の動きから未来が判るなんて、俄かには信じがたいですね」 「道具を使って観ては駄目だよ。雲などに隠れる星の見え方や明るさ、瞬き、全てから解るのだから」 「それはスゴイですね」 「信じていないね? しかし事実だよ」 そう言って話を切った天津甕星は最後の一口を頬張り、袖の中から何かを取り出した。 「何ですか? それは」 「先生のこの先30年分の未来を書いた紙だよ」 「なっ!?」 天津甕星が手に持ちヒラヒラさせているA3サイズの紙、それに輝の未来が30年分も書かれていると言うのだ。 そんな物を他人に渡されたら大変な事になりかねない。天津甕星はあろう事か、とうとう輝を脅迫すると言う手段に出たのだった。 「大丈夫、悪用する気は無いよ。ただ先生はこのまま行くと30歳になる今年、大変な災いに見舞われる事になる」 普通なら「そんな事嘘だ」と無視してしまえば良い所だが、天津甕星の力はもう充分知った輝だ。言う事を信じざるを得ない。 食べかけのパンを置いて「それをこちらに渡して下さい!」と言う輝に「フフッ、どうしようかな~」などと逃げ回る天津甕星。 未来を予知出来るからなのか単純に運動神経が良いだけなのか、輝は天津甕星を捕まえる事が出来ない。 朝の忙しい時にこんな事している場合じゃないのにと思いながらも、あの紙を放ってはおけない輝が躍起になって奪い取ろうとしていると、誤って足の小指をタンスの角にぶつけてしまった。 「いたぁっ!! いたたたたた……うぐぐ……」 ぶつけた小指を抱えて床を悶絶する輝を見下ろしながら、天津甕星は勝ち誇った顔でこう言った。 「その災いがいつ来るのか? どうすれば回避出来るのかもここに書かれている。助けてくれるなら渡してあげるけど……どうする?」 「きょ……協力するので教えて下さい……」 「フフッ、それが賢明だ」 こうして星見空輝は天津甕星に協力する事になったのだった。 いつもの学校への道、輝は普段一人で歩くこの道を、今日は二人で歩いていた。 輝の隣に並んで歩く天津甕星は相変わらずの羽織袴姿で目立つ事この上ない。 本当はこんな目立つ通勤嫌だった輝だが、天津甕星は勝手についてきてしまい、走って逃げようとしても何故か必ず先回りされてしまうので無駄な足掻きと諦めた。 それにしても、と輝は思う。明るい所で改めて見てみると、やはり天津甕星は美しい。 和風な出で立ちの人物に使う表現ではないが、まさにギリシャ彫刻のような性別を超えた美しさがあった。 「私の顔に何かついてるのかな?」 「い、いえ。少し考え事を……」 輝はつい天津甕星の顔に見入ってしまっていたようだ。その事を指摘され慌てて顔を逸らす。 平静を装ったつもりだったが、天津甕星は意味ありげに「フフッ」と笑って二人の間の距離を縮めてきた。 一瞬、驚き離れてしまいそうになった輝だったが、すぐに考え直し体をかわす事を止めた。 輝は昨夜から隣の人物の手の平で踊らされているような気がして、少しの悔しさと対抗心から敢えて距離を取らず気にしない風を装う事にしたのだ。 天津甕星は何も言わない。その沈黙に耐えられなくなった輝は、昨夜からずっと疑問に思っていた事を聞いて見る事にした。 「ところで、改めてお聞きしたのですが」 「何だい? 私に分かる事なら何でも答えるよ」 輝は相手の顔を見ないで声を掛ける。 声を掛けられた方の天津甕星が、隣で輝の顔を見上げてきた事は目端で分ったが向き直ったりしない。 真直ぐ前を見て歩く輝と、隣で彼を見て話す天津甕星。スーツと日本服の組み合わせは、ここ双葉学園でもかなり目立つ組み合わせだった。 「どうして異能力も持たない、一般人の私なんかに頼むのですか? どう考えても適材とは思えないのですが」 「フフッ、それはね――」 人差し指をピッと立てて得意気に話し始める天津甕星。案外可愛げのある神様だ。 しかしその事には突っ込まないで、輝は静かに天津甕星の説明を聞く事にした。 「ラルヴァの力も人間の異能力も、元を辿れば自然によって与えられた力だ。そして自然から未来を読む私の未来もまた自然によって定められた運命なんだ」 1999年7月――ノストラダムスの大予言の年、世界中で異能力者やラルヴァが急増した。 この時から世界は大きく変わってしまった。いや、表向きは何も変わっていない事になっているが、世界の裏側では激変を迎えたのだ。 丁度世紀末で世界中の人々がどこと無く落ち着かなくなっていたし、テレビは連日こぞって大予言に関する特番や、超能力や心霊現象、超常現象に関する特番を放送していた。 超能力、霊能力、心霊現象、超常現象、UFO、UMA。それらはブームのせいもあってか爆発的に増え、そして1999年の終わりと共に一気に収束していったのだ。 そう、少なくとも表向きは……。 「自然の定めた運命は自然から与えられた力では変えられない。よって神――君達の言い方をするなら私もラルヴァか。ラルヴァや異能力者では私の見た運命は覆せないんだよ」 異能力者では覆せない、と聞いて輝の頭にはクエスチョンが浮かんだ。 当時まだ『この業界』に入っていなかった輝は、当時の事を資料や口伝えに訊いただけで詳しくは知らない。 しかし1999年7月に発生したエンブリオは人間の手によって破壊されたと聞いた。それも異能力を持った者達も戦っての結果だ。 大予言にある恐怖の大王とエンブリオは直接は関係はなく、ラルヴァ大量発生の要因とは結びつかない一現象に過ぎないとの考え方が現在の通説だが、輝は昔流行った古い仮説の方を個人的に信じていた。 いや、正確には信じたいと思っていた。不謹慎ながらその方がロマンチックだと感じていたからだ。 だがエンブリオを破壊した後も、ラルヴァは変わらず世界各地に出現し続けている。輝が思うような古い仮説は現状と矛盾する。 もし天津甕星の言う事が正しいとすれば、人類の滅亡、世界の破滅と思われた1999年の出来事は、今も続いていると言う事になるはずだが――。 そこまで考えて輝は新しい、ある仮説に辿り着く。現段階では全く何の根拠も無い、仮説と言うにもおこがましい妄想の域を出ない話だが、その考えは一気に輝の頭の中に湧いてあふれ出した。 「ちょっと待って下さい! あなたの見た運命? それは一体……!?」 「……」 輝は天津甕星の言葉をじっと待つ。 その言葉のいかんによって、輝の中にある予感にも似た考えは確信へと変わってしまうかもしれないのだから。 天津甕星の見た未来、それは……。 「この人工島の崩壊……そしてそれにより東京湾の楔(くさび)を失った事で起こる天変地異と東京沈没。そして……」 輝は祈るように待った。 学園島の崩壊、東京沈没、それだけでも最悪の事態だがもし、もしも更に先があるとしたら、それこそは―― 「赤道上に位置する海抜10m以下の地域の沈没。地球の滅び」 「なっ……」 「人もラルヴァも、恐らくは誰一人生き残れない」 タイムスリップ、時間跳躍の思考実験を論ずる時、二つの仮説がある。 それは『親殺しのタイムパラドクス』等に代表される、時間を移動する事が出来た場合に起こる矛盾を説明する為の理論だ。 一つは平行世界(パラレルワールド)説。時間を渡り過去に移動した時点で、そこから別の歴史が枝分かれし、互いに平行世界となり不干渉な別の歴史が始めるとする理論。 もう一つは帳尻が合う様に出来ているとする説。過去に戻り誰かや何かを破壊しても、他の誰かや何かがその穴埋めをするように現われ、結局、元と同じ結果になるとする理論だ。 今回、天津甕星の言う「運命は覆せない」と言う言葉が正しかった場合、あの時、1999年に『人間が勝ってしまった』事の穴埋めが今も続いていると言う事になる。 理由も原因も不明なまま現われ続けるラルヴァ。何故人間を襲うのか。何故ラルヴァに対抗できる力を持った人間が生まれ続けるのか。 もし、その答えがそうであるならば。あの時起こるはずだった事とは、地球にとって人類とは――。 「1999年に起こらなかった事が……今、起ころうとしている」 午前中の講義も終わり、食堂で二人は食事を取っていた。 「しかし、その服装は何とかならないのですか?」 「何とかとはどう言う事だい?」 机に並んで講師と謎の羽織袴の人物が揃ってラーメンを啜(すす)っている様子は中々にシュールな光景だ。 周囲の生徒達や同僚からも好奇の視線が送られているが、誰一人話しかけてこようとはしない。 恐らく、輝の隣に座っている人物の恰好もあるが、男か女か分らない風貌も、声をかけづらい雰囲気に貢献しているのだろう。 「朝からずっと目立って視線が痛いです」 「ふむ……」 だと言うのに、当の本人は周囲の視線などどこ吹く風、何も気にせず振舞っていられるのだから凄い。 神と言うだけあって大物なのか、それともただ面の皮が厚いだけなのか。 「ならば先生が私に服を買ってくれるなら、着替える事も吝(やぶさ)かではないよ」 後者だったようだ。 輝は気持ちを切り換えて、午前中に考えていた事を隣の図々しい男女?に話す。 「先程、赤道上と言いましたが、白道(月の軌道)は黄道から約5.8度ほど傾いています。そして黄道(太陽の軌道)は赤道から約23.4度の傾きです」 地球の地軸が傾いている事は周知の事実だが、月の軌道が太陽の軌道とずれている事を知っている者は意外と少ない。 この傾きが日食や月食の起こる頻度とも関係しているのだが、それは今は関係の無い話なので割愛する。 つまり、月が接近してその重力の影響を受けやすい地域は決まっている事になるのだ。 「潮汐力の計算は専門外ですが、単純に位置関係から言って水没する地域は赤道上から約29度付近にある都市。つまり、北緯29度から南緯29度上にある都市が影響を受ける事になりますね」 そこまで輝が言って、天津甕星はほぅと感嘆の声を漏らした。 「やっぱり先生にお願いしたのは間違いじゃなかった」 上機嫌に箸をタクトのようにクルリと回し天津甕星は輝に言った。 天津甕星は占星術の心得はあっても天文学的知識はそれほどでもない。故に天文学に明るい輝の知識の一端を垣間見た事で、自分の余地は間違っていなかった事を再認識できたのだ。 しかし輝はそんな喜ぶ天津甕星に水を注すような一言を言う。 「いえ、月の距離によって結果は二通りあるのです。今のは良い方の結果ならそうなる、と言うだけの話です」 「良い方?」 そう、今輝が言ったのは良い方に転んだ場合の結果だった。 どちらにせよこのまま月が接近して重力の影響を受ければ、世界の都市は壊滅的打撃を被る事となる。そもそも月が接近し続け地球に落ちた場合など、それこそ人類滅亡だけでは済まされない。 しかしそこまでの自体は考えにくい事だった。 現在のバランス点から月を引いているだけでも人知を超えた力が作用していると言うのに、これ以上バランスの悪い位置に移動させる事は、例え神でも不可能だろう。 それより危惧すべきは別の問題だった。 「えぇ。月は近づいてくれば月の重力の影響も大きくなりますが、同時に公転周期も早まり遠心力も強まります。つまり月が接近している原因を除去できれば、月は再び現在の準安定軌道の距離まで戻ってくれるのです」 「ふむ……それまでにこの現象を引き起こしている原因を特定し、取り除けばよいと言う訳だね」 そうだ、それまでに原因を特定し解決すれば良い。速ければ早いほど被害は少なくて済む。 幸いまだ月の重力の影響は出ていないように見える。今の内に原因を特定しなければならないのだ。 (だがもし月がこのまま接近し続け地球の大気圏にまで近づいたとしたらどうなる? その時は最悪……) 万が一こんな事が出来る人物がいて、この現象が人為的現象であった場合、そしてその人物が物理学や天文学の知識を持っていた場合、最悪の事態になりかねない。 学問の発達における思考実験は時に、無意味とも思える知識を人に与える。「人間の力では不可能だが、もしそうなったら」そんな空想の世界の結果を見せてくれる。 本来ならその空想の世界は実現される事は無い筈だった。だが今は人外が闊歩し人は人を超えた力を身に付ける時代。 人の英知を悪用しようとする者が現われても何らおかしくないのだ。 「それでは先生。悪い方の場合も聞こうか」 「えぇ、そうですね。悪い方の場合、それは――」 「あ、せんせー!」 と、二人の後ろから能天気で大きな声がかけられる。 振り返ってみるとラーメンチャーハンセットをトレイに乗せた、ショートヘアーで雪焼けの肌が見るからに健康そうな一人の女子生徒が立っていた。 東雲ヶ原睦月(しののめがはらむつき)、輝と同じ天文学部に通う三年目の女子だ。 「おはよう、睦月くん」 皮肉混じりにおはようと言われながら「たはは、おはよーございまーす」と言って二人の向かいの席に座る。 この生徒も輝と同じ研究室に通うようになった一人だ。多少ルーズな所はあるが、明るくいつもニコニコしていて、少し子供っぽい所もあるが良い生徒だった。 真面目で付き合いの悪い輝とも、こうして歳の差も気にせず気さくに話しかけてくれる。 単に礼儀作法を知らないだけかもしれないが、不思議と憎めない人懐っこさと可愛さがあるこの生徒を、輝は密かに気に入っていた。 「今朝の講義、来ていませんでしたね。どうしたのですか?」 「てへへ……ごめんなさい、寝坊しちゃって」 「まったく、貴女と言う人は」 そう言いながら輝は今朝の講義で配った資料のプリントを鞄から出して睦月に渡す。 睦月は「えへへ、ありがとせんせ。そーゆー優しい所好きだよ」などと言って年上をからかっている。そして輝の方も怒りながらもどこか楽しそうに受け答えしている。 その二人のやり取りをジト~っとした目で見ているのが、すっかり蚊帳の外になってしまった天津甕星だった。 「せんせー、隣のその人は?」 その視線に気付いたのか、睦月はさっきから輝の隣に居る羽織袴の謎の人物に意識を向けた。 「あぁ、この人は――」 「天野甕(あまのみか)だよ。ミカで良い」 「ミカさんですね。私東雲ヶ原睦月って言います、宜しく」 二人はにこやかに握手すると再び机に座って天津甕星――甕(ミカ)は残った伸び伸びのラーメンを一気にかっ食らった。 「え? あの……」 甕が何故偽名など使ったのか?その理由を聞こうと思った輝だったが、逆に甕の方からその説明はなされる事となった。 甕は輝の耳をちょいと引っ張り寄せると、小声で睦月に聞こえないよう耳打ちした。 (神――ラルヴァだと分ると色々面倒だからね。遠縁の親戚と言う事にしておいてくれ) 輝の耳元に口を近づけ秘密の会話をしている光景を見てカチンと来た睦月。 今度は自分の番だとばかり机を乗り出して反対側の輝の耳元に自分の口を近づける。 (せんせー、この人誰ですか? もしかして先生の恋人ですか?) こちらも甕に聞こえないようボソボソと小声で話す。 輝の耳元から顔を離した睦月はチラリと甕の方を一目見ると、また席に座って猛然とラーメンとチャーハンを食らい出した。 そんな様子のおかしい二人におろおろしながら、輝は甕に言われた通り睦月に説明し始める。 何故自分がこんなにおろおろしなければいけないんだ?と言う疑問もあったが、精神的にそれどころでは無かったので疑問はすぐに消えた。 「こ、この人は私の遠縁の親戚で……えぇっと、異能力が発現したからこの学園に入る為に見学に来ているんだ」 取り敢えず問題なさそうな説明を睦月にする。 そうして説明している間にも二人はニコニコと向かい合っているのだが、表情とは裏腹に何か不安を掻き立てられる空気だ。 「異能力? へー、すっごいですねー! どんな力に目覚めたんですか? 私興味ある~」 「星占いの異能力だよ。まぁ……的中率はほぼ十割に近いかな」 「すごーーーい! それって恋愛とかも見られるんですか? 今度ぜひ見て下さーい」 「お安いご用だよ。何だったら今夜にでも見ておいてあげよう」 「フフフフフ」「アハハハハ」と仲良さ気に笑い合う二人だが、その間に流れる空気は何故か緊張の糸が張り詰めたように重い。 (な、なんだ? この空気は……二人とも笑ってるはずなのに空気が重い……) いつの間にか三人の周りには半径1m程の近づけないフィールドが形成されており、学食に集まる学生達も触らぬ神に祟り無しとばかりに見もしない。 星見空輝29歳。未だ女心の読めない彼女居ない暦=年齢の独身であった。 【永遠の満月の方程式 -序- 後篇】に続く トップに戻る 作品保管庫に戻る
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そのとき、血塗れ仔猫の邪悪な笑顔が何者かの拳によってひしゃげた。 みきと雅はとても驚いて、黒い悪魔が殴られて吹っ飛んでいくのを見ていた。 憎き宿敵を殴り倒した異能者――関川泰利は、唾をグラウンドに吐き出してからこう言った。 「もう好き勝手やらせねえぞ・・・・・・。いつまでもくたばっていると思うなよ、この悪魔が!」 そしてその背後から顔を出したのは、三人の少年たちだ。 「おー、動ける動ける。なかなか気分がいいなあ、自由になるのって!」 「ずっとあいつの言いなりになっていたからね。まったく、死んだなら死んだで、とっととゆっくり眠りにつきたかったのになあ?」 「僕なんて何度も頭ちぎられたりお腹かき回されたり散々だったよ。こんな僕でも、あいつだけはどうしても許せないよ・・・・・・」 小山真太郎、・野口道彦、久本昭二は口々にそう言った。好き勝手に動き出した「人形」たちを目の当たりにした血濡れ仔猫は、声を震わせながら彼らにこうきいた。 「ど、どうして・・・・・・? どうして私の束縛しているあなたたちは、勝手に動くことができるの? ここは私が支配しているアツィルト・ワールドだよ? 私の精神世界だよ? あなたたちが自分の意志で行動することはできないはずなのに・・・・・・?」 「誰の世界ですって? 勘違いも甚だしいんじゃないの、血塗れ仔猫さん?」 はっとして血塗れ仔猫は後ろを振り向く。短剣を握った大島亜由美が、彼女のことを見下ろしていたのだ。血塗れ仔猫は慌てて鞭を握ろうとしたが、その顔面を亜由美は容赦なく、前方に蹴り飛ばしてしまう。 吹き飛んでいく彼女の体をしっかり捉え、亜由美は短剣に力を込める。きらきらと白い輝きを帯びたナイフを、亜由美はぴゅんと横になぎ払った。 真っ直ぐ放たれたカッターが血塗れ仔猫に炸裂し、禍々しい悲鳴が上がる。病的なドレスがずたずたに裂けて、黒い布がカラスの羽のようにこぼれていった。 戦いから取り残されて唖然としている雅のもとに、美しい少女が歩み寄る。落合瑠子は「大丈夫?」と怪我をしている雅を気遣ってくれた。 「君たちは、この夏の事件の被害者かい・・・・・・?」と、雅が彼らにきいた。 「ああ、そうだ」と、泰利が答える。「俺たちはあの血濡れ仔猫によって殺された亡霊だ。あいつは俺たちが死んでもこの世界に魂を拘束し、何度も粉々にしたり切り裂いたり好き勝手やってきたんだ。まったく、悪趣味にもほどがあるぜ!」 「ほんと、血塗れ仔猫は憎くて憎くてたまらない。久本くんたちを残虐に殺して、私の妹も無残に手にかけて。これだからラルヴァは悪だと私は思う!」 亜由美はみきが少しうつむいたのを見ると、彼女に向かってにかっと微笑み、こう明るく言ってみせた。 「私が大嫌いなのは血塗れ仔猫。立浪みきさんは何も関係ないじゃない! あなただって、あの悪趣味な黒いクソ猫の被害者だよ!」 彼女に同意して泰利も瑠子も真太郎も道彦も昭二も、みきに向かって微笑んだり、ピースサインを向けたりしている。 「うう・・・・・・みんな・・・・・・みんなあ・・・・・・!」 みきは泣いた。みきはずっと、不条理に奪われることになった七人の命のことを、申し訳なく思っていた。きっと自分は彼らの強い恨みを背負って、破滅のときを迎えるのだろうとさえ思っていた。 でも、そのような悩み事も杞憂に終わったのだ。彼らはきちんとわかっていた。この悲劇の黒幕は立浪みきではなく、「血塗れ仔猫」だということを! 「そうかあ。立浪みきが生きる意志を取り戻しかけているのが、このアツィルト・ワールドに変調を及ぼしているのねえ・・・・・・? 私の掌握していたこの世界がみきに奪われようとしているから、あなたたちは動けるようになった・・・・・・」 「馬鹿言うんじゃねえよ。ここはもともと、てめえの世界じゃねえだろ」と、泰利。 「あんたの拷問はかなーり痛かったよ・・・・・・? そして、よくも散々ここで美玖を辱めてくれたね・・・・・・?」と、亜由美。 二人の亡き異能者は同時に地面を蹴った。「お、おのれえ、人間めええええええ!」という血塗れ仔猫の咆哮が、彼らを迎えうつ。 そして、みきのもとに一人の少女が近づいてくる。それはみくにとてもそっくりな少女、美玖であった。 「倒してぇ!」 と、グラウンドに落ちていた緑の短剣をみきに差し出した。 「血濡れ仔猫をやっつけて! あいつのせいでみんなみんな死んじゃった! 私も殺された! お母さんもお父さんも死ぬほど悲しんだ! お願い、みきお姉ちゃん! みきお姉ちゃんがあいつをやっつけて! 私たちの仇をとってえ!」 みきは姉猫のグラディウスを受け取った。そうだ、自分には自分の帰りを待っている、可愛い妹がいる。早くこの戦いを終わらせて、みくのもとへと帰らなくてはならないのだ。みきは短剣をしっかり握ると、泰利と亜由美に攻め込まれて苦戦している、血濡れ仔猫のほうを向いた。 「私が人間に負けるわけがない! 私は血塗れ仔猫、双葉島の住民を恐怖のどん底に陥れる悪魔なんだ! 鞭で人間を叩いておしおきする死神なんだ! そんな私がこんな亡霊ごときに、こんな雑魚ごときに――」 頭に血が上ると目の前のものしか見えなくなり、冷静さを失うのは猫の血筋の大きな欠点である。血塗れ仔猫はほとんど気づけなかった。彼女の背後でもう一人の自分自身が、姉の短剣を握り締めて飛び掛ってきたことを。 「姉さん! どうか私に、私に力を貸してくださぁい!」 「しまっ――」 隙を突かれた血塗れ仔猫は、ばっと後ろを振り向くが―― みかのグラディウスが、振り向いた血塗れ仔猫の胸に深く刺さった――! 恐ろしい断末魔の叫び声が青空に高く響き渡る。血塗れ仔猫はおびただしい吐血を起こしながら、自分の胸に深々と貫かれた短剣を見た。 「そんな・・・・・・私が死ぬ・・・・・・? 血濡れ仔猫が敗れる・・・・・・? 嘘だ、悪夢は終わらない! こんな、こんな攻撃でくたばるような私じゃないのにぃ・・・・・・!」 地面に崩れ落ちた血塗れ仔猫は、ぜえぜえ辛そうに息をしながらも抵抗を表明した。 しかし。 『いいや、もうおしまいだよ。いい加減、諦めてみきの心から離れていきな』 その声を聞いたとき、大きく開かれたみきの両目から熱い涙がぶわっと沸いて、零れ落ちていった。血塗れ仔猫はあまりのショックに、首をぶんぶん振りながら声のしたほうを捜した。 「バカな・・・・・・! ありえない! そんなことはありえない! どうして、どうしてそんなことがあああっ・・・・・・!」 そのとき、血塗れ仔猫の胸に突き刺さっている緑のグラディウスが、まばゆい発光を見せた。 「何だぁっ・・・・・・?」 突然のことに血塗れ仔猫は目を背け、みきは本当に嬉しそうにして泣きながら、とある人物の帰還を喜んでいる。 『ふふふふ、あたしもね、ものすごい奇跡だと思ってる・・・・・・。みきを安らかな眠りに付かせようとしたあのとき、ありったけの魂源力をこの剣に込めたのが幸いしたんだ。これは偶然であり、まさに奇跡といっていい・・・・・・!』 グラディウスが血塗れ仔猫の体から離れると、げほっと彼女はひと塊の血を吐いた。宙に浮いた短剣はさらに発光を強め、ドンとはじけ飛ぶ。 ・・・・・・白い猫耳。白い尻尾。長い髪の毛は、背中の辺りで一つにまとめ、ぶらさげている。双葉学園の制服を着込んだ彼女はお気に入りのグラディウを左手に握り、恐れおののいている血塗れ仔猫の目の前に立っていた。 「ふざけるなあ・・・・・・! こんなこと、あってたまるか・・・・・・! あなたが、死んだあなたがこの場に干渉することなんて、絶対にありえないことなのにぃ・・・・・・!」 みきは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、その人物のことをこう呼んだ。 「お姉ちゃん・・・・・・!」 「ただいま、みき。一人でよく戦った。私がいなくても、お前はもう大丈夫みたいだね」 立浪三姉妹の長女・みかは、微笑みを向けながらそう言ったのであった。 「あれが、みくのもう一人のお姉さん・・・・・・」と、雅が言う。彼もまた自然と笑顔になって、この大逆転にぶるぶる震えていた。 みかはきっと血塗れ仔猫を睨んだ。黒の異形は肩を一瞬震わせたあと、悔しそうに歯を食いしばって黒い鞭を手繰り寄せる。 「てめーが血塗れ仔猫か。よくもみきを乗っ取って好き勝手やってくれたな。あたしゃ、三年前に戦ったときからずっと、みきの心の中にでも潜りこんでてめーをシバきあげたいと思ってきたもんだ。覚悟しやがれ」 姉猫の両目が緑に輝いた。それに呼応して、グラディウスも鮮やかな緑色に燃えあがる。 「く、くっそおおおおおお! 調子に乗らないでえ! 三年前、私に苦戦したあなたに私を倒せるはずが無いいいい!」 血塗れ仔猫は鞭を縦に振り、みかの頭部を吹き飛ばそうとする。だが、みかは表情をまったく変えることなく、左手をぴゅんとしならせた。短剣によって斬られた鞭の先が、彼女の横を通過していった。 「あたしはみきの『お姉ちゃん』だ。いつ、どんなときでも、みきのことを守ってやるんだ。たとえ死んでしまって、ユーレイになってもね・・・・・・!」 みかは血塗れ仔猫に飛びかかった。心臓に穴が開いた血濡れ仔猫は、もはやまともに勝負をすることができない。 みかの瞳がぎゅっと絞られ、猫の鳴き声をこの世界に轟かせる。グラディウスで縦に、横に、斜めに何度も執拗に斬りつけ、一瞬のうちに何百回も憎き相手を切り刻んだ。 瞳の輝きを失って、ふらっと後ろに倒れていく血塗れ仔猫。みかは後ろにいるみきに向かってこう叫んだ。 「今だ、みき! お前が止めを刺せ! 自分でこの悪夢を終わらせるんだ!」 「ハイ、姉さん!」 みきがコバルトの鞭を青に輝かせる。右手から注ぎ込まれた魂源力は手元から先のほうまでぐんぐん伝わり、鞭の全体が青白い発光を見せる。それをしなやかに振りぬいて、血塗れ仔猫の顔面目掛けてぶっ飛ばす。 最後、みきはオッドアイを強く光らせてこう怒鳴った。 「私は『ラルヴァ』なんかじゃない! 猫の力で戦う『異能者』です!」 ――決着の瞬間を、この場にいる人間たちは固唾を呑んで見守っていた。 みきの攻撃は敵の顔面に見事直撃し、血塗れ仔猫は頭部を喪失してしまう。敗北した彼女が膝を付いた瞬間、全身にひびが入って体がぼろぼろと崩れ落ちていった。 その瞬間、真太郎と道彦が歓声を上げる。亜由美が昭二に抱きつく。 泰利と瑠子は二人並んで、笑顔を向けている。 美玖が青空に向かって、「やったぁー!」と嬉しそうに飛び上がった。 「終わった。さすがに疲れたぞ」と、雅も笑いながらあぐらをかいて座っていた。 みかも感慨深そうに妹のことを見つめていた。黒い己に打ち勝ち、試練を乗り越えてみせた泣き虫な妹の背中を、姉猫はしんみりとした表情で見守っている。 崩れ落ちた灰色の亡骸を複雑な心境で見つめながら、みきは猫耳をひっこめた。 「さようなら、もう一人の私・・・・・・」 そう、みきは鞭を消去しながら呟いたのであった。 こうしてみきの心の中に巣食っていた恐怖の異形・血濡れ仔猫は、立浪みき本人によって倒され、敗れ、その存在を消失させたのであった。 アツィルト・ワールドに光が差す。戦いで高ぶった気持ちや火照った体を癒すように、冷たい風が流れていった。それはみきにとってとても懐かしい、爽やかな潮の匂いを運んできてくれた。 「私たちの仇をとってくれてどうもありがとう」 と、大島亜由美が言う。みきは彼女にしっかり向き合うと、申し訳なさそうにしてこう言った。 「あなたたちは何も関係ない生徒だったのに・・・・・・。私のせいでこんな目に合わせてしまって、本当にごめんなさい」 「何言ってるの!」と、美玖が笑った。「私たちの敵はあの血濡れ仔猫じゃないの! みきお姉ちゃんは何も悪くないよ! みきお姉ちゃんがあいつを倒してくれて、私たちもようやくゆっくり休むことが出来そうで、とっても嬉しいんだから!」 ありがとう、とみきは涙ぐみながら言う。そんな三人のところに、こそこそと別の三人組が近づいてきた。 「そーれ!」と真太郎と道彦は昭二の背中を乱暴に蹴っ飛ばし、亜由美のもとへ無理やり寄せてしまう。顔を真っ赤にしてしどろもどろになっている昭二のことを、亜由美も照れくさそうにして見つめていた。 「血塗れ仔猫もいなくなったことだし、これで私たちもあいつの束縛から解放されることになる。そろそろ永い眠りに着こうと思います。短い生涯でしたが、私は何の悔いもありません」 亜由美がそう言うと、彼女の体がすっと透き通っていった。それに合わせるようにして、美玖も昭二もその存在を薄めていく。 最後に美玖が、「ばいばい! 私の分も頑張って『生きてね』。みきお姉ちゃん!」と、本当にみくにそっくりな笑顔を向けながら消えていった。 それに対してみきは、「うん。生きる。もう二度と、死にたいなんて言わないよ」と呟いてあげたのであった。 「あーあ。結局、昭二に亜由美を取られちゃったってことかあ」 と、真太郎がそっぽを向いてそう言った。道彦がぷっと吹き出して、「ま、そういうわけだ。女々しく悔しがってないで、俺たちも早いこと休もうぜ」と言う。 真太郎が「悔しくなんかないやい」と涙ぐみながら強がったとき、二人もこの世界から去っていった。 そして最後に泰利と瑠子が二人並んで、みきとみかと雅のほうを向いてこう言った。 「俺だって血塗れ仔猫と戦って死んだことに、何の後悔もしていません。何か大切なものをかけて、自分の力を使って戦うことが、異能者としての誇りだと俺は思うから。・・・・・・みきさんも、その手で守っていきたいものや、人がいるんですよね?」 「・・・・・・はい」と、みきは微笑みながら言った。 「何も死ななくてもいいのに」と、瑠子が澄ました笑顔で言う。「直球。正直。一途。この人の良いところであり、困っちゃうところね。まあ、この人のおかげで私は幸せな一生を送ることができたのかな? ふふ」 泰利は何も言葉を発することができず顔を真っ赤にして、下を向いて黙り込んでしまった。姉妹も雅も、楽しそうな笑い声を上げた。 「・・・・・・じゃあ、そろそろ行こうか、瑠子」 「はい」と、瑠子はにっこり笑う。 「それでは俺たちも一緒に旅立つこととします。俺たちの分も、学園生活楽しんでください。みきさんも、異能者として色々な可能性があるんだということを忘れないでおいてください」 瑠子の手をとった泰利は、地面を強く蹴って飛び上がった。二人は青空を背景にして高く高く飛んでいく。彼の能力は『跳躍』だった。瑠子はそんな彼の手をしっかり握っている。雅は二人の背中に翼が生えているような幻を見た。 瑠子はみきの方を向いてにこっと笑った。みきもその幸せそうな瞳の輝きを見つめ、右手を振ってあげた。 血濡れ仔猫によって殺された七人の魂は、こうして天国へと旅立っていったのである。 「姉さん・・・・・・」 みきは姉に向き合うと、とても寂しそうにこうきいた。 「・・・・・・やっぱり姉さんも、行ってしまわれるのですか?」 そうきかれたみかはばつが悪そうに頬をかくと、こんなことを言ったのだ。 「・・・・・・なんか、そういうわけにもいかねーんだよ。あたし、もしかしたら死んでないのかもしれない」 「ええっ?」と、これにはみきも雅も仰天する。 「あたしの死体が海中から引き上げられたって話なんだよね? でも、それならそれでとっとと成仏しちゃいたいとこだったんだけど、どうしてか不可能なんだ」 「じゃあ・・・・・・みかさんの体がどこかに・・・・・・?」 「だとは思うんだけどなあ」と、みかは困った顔をして言う。「ここにいるあたしは、あたしが三年前、この短剣に込めた魂源力そのものだよ。注ぎ込める限りのすべての魂源力を注ぎ込んだ瞬間、突然誰かに撃たれたんだよね? その結果、身体と魂源力が分離してしまったわけだ。んで、身体はどこに行ったかわからない。一方、あたしの魂源力はこうして宙ぶらりん。とまあ、こういうわけなんだ」 こういった世界であたしは具現できるようだね、とみかは付け加える。雅は異能の奥深さに、ただただ舌を巻くばかりであった。 そんな雅のところにいつの間に、みかが目の前まで近づいてきていた。彼は驚いて、「な、何ですか」と言う。 「その腕輪・・・・・・。んっふっふ、みくのやつ、マサを『ご主人様』にしたわけだねえ」 雅の腕には茶色い腕輪がかかっている。みくと交わした「主従の契約」のしるしだ。 「まさかあたしも、それが『解決の手段』だとは思ってもみなかった。それはあたしたち猫の血筋に代々伝わるものだ。悪趣味なおまじないかとさえ見ていたほどだったのに、そんな意味合いがあったなんてねえ・・・・・・。 よく、みくは気がついたよ。まあ、誰か恋人を見つけようなんて、当時のあたしたちは考えようともしなかったけどさあ」 目をぱちくりさせて、雅はぽかんとしていた。解決の手段? この恥かしい契約が、解決の手段? 何の? と、ここでみかが顔を赤らめながら、ぽーっと上目遣いで自分のことを見つめているのに気がついた。雅が「え? どうかしましたか、お姉さん」ときいたとき。 「あたしの好みだ。惚れた」 「ええ!」 次の瞬間には、雅は姉猫に押し倒されていた。彼女の長い前髪が顔にかかる。極限まで近づいた緑の瞳は、しっとりと湿っていた。いったい何が始まるのか。自分は何をされようとしているのか。 「往生際が悪くてねえ。あたしはこうしてユーレイになってもなお、好きな人は逃がさないわけさ。とりついてやる」 「はあ? ちょっと、お姉さん。何を」 唇を強引に重ねられた。雅がもごもご抵抗していると、腕を後ろに回されて、ぎゅっときつく抱きしめられてしまう。 ところがその瞬間。みかの体が淡く発光したと思ったら、ぱちんと弾けてしまう。 丸い緑の球体が、仰向けのままの雅の上に浮遊していた。球体となったみかはそのまま降りてくると、すっと雅の胸の中に浸透していった。すると雅の疲労が完全に回復し、折れていた右肘が繋がっている。前よりも力が湧いてくるような気分がしていた。 「・・・・・・と、冗談はここまでにしといて、おめでとう、遠藤雅!」 どこからか、みかの声が聞こえてきた。 「これまでいくつもの戦いを勝ち抜いてきたごほうびだ。マサは夏休み中も、ずっと頑張ってたらしいからね、あたしの魂源力を貸してあげるよ!」 「なるほど、異能者の成長システムですね」と、みきが補足してくれた。 「これで、一回の戦闘に使える治癒の回数が『三回』になったね。あとは治癒を使ったときに、あたしのちょっとした特性が反映されるかな? なあに、オマケ程度の要素だよ。 じゃあ、マサ。後のことは頼んだよ? みきをよろしくね。みくを泣かしたら承知しないぞ! あたしは復活できるまでのあいだ、マサの精神世界でのんびり暮らしてるから、夢の中で会ったときとかあたしとイチャイチャしておくれ!」 立浪みかはそれだけ言うと、みきのアツィルト・ワールドから、その存在を完全に消失させた。 「姉さんは人懐っこいところがあるんです。まあ、半分冗談程度に受け取っておいてあげてください・・・・・」 と、みきが恥ずかしそうにそう教えてくれた。雅は「あ、そうですか、わかりました」と困惑しながら言った。 「・・・・・・じゃあ、そろそろ帰ろうか。みくのところへ」 「はい」 みきが目覚めることを望んだ瞬間、アツィルト・ワールドはうっすらと白く包まれる。 夢から覚める。不思議な夢から覚める。それは七人の命を惨たらしく奪った悪夢であり、黒の自分に打ち勝って七人の命を解放した痛快な夢でもある。 戦士たちは夢から覚めて、現実へと帰っていく――。 一面に広がる青空と、潮風の吹きつける東京湾。 展望台に戻ってきた雅は日差しの眩しさに目をしかめた。すぐさまはっとして、辺りを見渡す。 「はあ・・・・・・はあ・・・・・・」 みくがわき腹を押さえたままぐったり倒れていて、彼はびっくりする。みくは血塗れ仔猫の戦闘で負傷していたのだった。 「うわあああ、みく! しっかりしろ! もう大丈夫だからな!」 雅は早速、治癒魔法をかけてあげた。胸のうちに大きく膨らむ魂源力を、右腕を通じて手のひらから分け与える。患部にかざされた治癒の発光は緑色をしており、雅は少し驚いた。 「・・・・・・ぐぐ・・・・・・ぷはあ。重傷者の放置プレイとか、なかなかカゲキなことしてくれるわね、ご主人様ぁ・・・・・・?」 じとっとした目で睨んでいるみくに、雅はへこへこと平謝りをした。 「ゴメン。本当にゴメン。正直悪かった」 「あれ・・・・・・? あんた、瞳が緑色に光ってるわよ?」 え? と雅はぱちぱちまばたきをする。「ふふふ。まるでみかお姉ちゃんそっくり」とみくが言ったとき、彼はなるほどなと納得したのである。みかの魂源力がこうした形で反映されているのだ。 完全に回復したみくは立ち上がると、服に付いた砂をぽんぽんと叩いて払った。それから首をゆっくり左右に振って、心配そうにこうきいた。 「みきお姉ちゃんは、どうなったの? まさかまたいなくなっちゃったとか、そんなことないよね?」 「・・・・・・安心して。ほら、もうすぐそこまで来てるよ」 そして、みくは見た。目の前に白く光る球体が現れ、雛のかえる卵のようにひびわれて光が漏れ出し、ぱっと弾けたのを。 みくは笑った。笑いながら、金色の瞳を涙でいっぱいにした。 光の中から降りてきたのは、黒いドレスを着た少女だった。血塗れ仔猫と違うのは、穏やかな微笑をたたえつつ両目を瞑っていた点である。 「お姉ちゃん・・・・・・!」 みくがそう呼ぶと両目が開かれ、美麗なオッドアイが彼女を向いた。 「ただいま・・・・・・みくちゃ!」 「お姉ちゃあああん! んもう、バカああああああ!」 みくは三年前に一人ぼっちになってから、ずっと一人で戦ってきた。その道のりは決して平坦なものではなかったし、死にかけたことも何度もあった。与田から自分たちの秘密を明かされてから自分を見失い、大好きな相方と離れて旅に出たこともあった。 彼女は気丈でとても気の強い性格をしている。もともとそういう性格であったことは言うまでもないが、複雑な事情はいっそうみくをきつい性格に作り上げていった。彼女は姉がいなくても、しっかり独りで生きていかなくてはならなかった。 そのような苦労の時代も、最高の形で帰結する。みくはみきに抱きついた。三年ぶりの温もりに抱かれてひたすら泣いていた。甘える対象が帰ってきて、ようやく出すことのできた歳相応な子供の姿を、雅も温かく見守っている。 「いったいどこ行ってたのよお・・・・・・。ずっと、最後の朝食のこと、忘れられなかった・・・・・・。ばか、お姉ちゃんなんてきらい。だいきらい」 「ごめんね、みくちゃ・・・・・・。もうこれからはずっと一緒だよ。どこにも行ったりはしないよ。私と一緒にまた暮らしていこうね・・・・・・!」 午後の日差しに反射して、ゆらゆらと白い明かりが真っ直ぐ海に伸びている。それはまるで、これまで二人が歩んできた長い道のりを暗示しているかのようだ。そんな光景を背景にして、姉妹は強く強く抱き合っている。 こうして立浪みきは、三年のときを経て2019年、ついに復活を遂げたのであった。 「ところで・・・・・・」と、みきはおもむろに雅のほうを向いた。 「何でしょうか?」 「マサさんはうちのみくちゃとどういう関係なのでしょうか?」 どきっとして、雅は冷や汗をかく。「ただの友達です」と答えれば恐らくパンチが飛んでくる。「相方です」と言えば機嫌損ねる程度で丸く収まるかもしれない。何よりも大学生が小学生の子を指差して「恋人です」などといえるはずがない。 「マサはね、今年の春から一緒に行動している相方なの。まだこの島に来て少ししか経ってないっていうから、私が世話を焼いてあげているわけ。そうよね、マサ?」 案外大人なみくの対応に、あれこれ思案していた雅は拍子抜けしてしまった。ワンテンポ遅れてみきにこう答える。 「え、はい、そうです。改めまして、遠藤雅と申します。あの世界では色々と生意気言ってすみませんでした」 「嘘です。その腕輪と首輪が何よりの証拠です。本当はどういう関係なのか、お姉さんに教えなさい。今後そういうお付き合いをする際は、きちんとお姉さんを通してもらわないと困ります。わかりましたね、マサさん?」 と、彼女は頬を膨らませてそっぽを向いてしまう。雅はどうしていいかわからず、たじたじになってしまった。 「お姉ちゃん、これからお姉ちゃんはどうしていくの?」 「私? えっとね」と、みきは頬に人差し指を当てた。「学園に帰りたい。私はどうやら成長が止まってて、今も十六歳のままみたいなの。だから、編入するとしたら高校一年生なのかなあ?」 「もう、お姉ちゃんのことを悪く言う奴はいないのかなあ・・・・・・」 と、みくが心配そうにしてぽつりと言った。 三年前、立浪みかとみきは「祖先にラルヴァの存在を確認した」という理由で『ラルヴァ』だというレイベリングを一部の学園生徒にされてしまった。一部の陰謀が働いていたとはいえ、自分の存在を否定された双葉学園にみきは復帰することができるのだろうか。 「大丈夫だよ。私は『ラルヴァ』じゃないよ。猫の力を使って戦う『異能者』なんだから」 と、みきは元気に言ってみせた。それを見た妹は嬉しそうに微笑んだあと、続いてこんなことを思い出す。 「あー、そういえば。七夕の夜に偶然会った人がいるの。ええとね、ぱっと見は私とほとんど変わらない女の子みたいなんだけど、学園の教師ですって言ってたなあ。私とお姉ちゃんのことを知っててびっくりしたんだけど、あれお姉ちゃんの知り合いなの?」 雅が与田に捕らわれて、救出に向かった七夕の夜。みくはとある人物と出会っていた。 春奈・C・クラウディウス。みくの話を聞いただけで、みきはその人が誰であるのかすぐにわかった。春奈は双葉学園高等部・1Bの担任であり、三年前のみきの担任でもあった。 「春奈せんせー・・・・・・」 彼女はしきりに自分のことを気にかけてくれた。与田光一の執拗な研究に付き合っていた頃、日に日にやつれて弱っていく自分のことをとても心配してくれていた。あの人のことだから、たとえ私が血塗れた悪魔になっても、こんな自分のことを気にしてくれていたに違いない。そう思うと、みきはぐすんと涙ぐんだ。 「早く、せんせーさんに会いたい」と、みきは言う。「早く春奈せんせーのところに戻って、元気な顔を見せてあげたい。目を背けたくなるような宿命も悪夢も、全部終わった。みんな私は終わらせた。私はできることなら、今の春奈せんせーのクラスに帰りたいと思っている。それが、一番いいよね・・・・・・?」 「そうだね、きっとその思いは叶うと思う」と、雅も同意してあげる。 とんぼのつがいが展望台を飛び回り、三人の目の前をくるくる舞った。暑い夏が終わり、双葉学園はこれから涼しくて静かな秋を迎えようとしている。 こうして、真夏の悪夢は幕を閉じたのであった。 ここから先の物語を受け入れるかどうかは、読者にお任せいたします 「これで全て終わったんだよね、マサ」と、みくがきいた。 「うん。みくも僕も色々あったけど、丸く収まって何よりだよ。もう少し、夏休みは一緒に遊びたかったね。土日とか二人で遊びに行こうか?」 「何バカなこと言ってんの! お姉ちゃんも加えてあげなくちゃ可哀相でしょうが、このバカ!」 ぴょんと飛んで、雅の頭にげんこつをお見舞いさせる。雅が「痛いなあ! 何も殴ることないじゃないかあ!」と、ふざけて怒鳴ろうとしたときだ。 「きゃっ・・・・・・!」 みきの悲鳴が聞こえて、二人ははっとして後ろを振り返る。 二人はみきが何者かによって頭を捕まれて、宙にぶら下げられているのを見た。 潮風にたなびく赤いマフラー。双葉学園の制服。 雅は驚愕して震えだす。 馬鹿な・・・・・・。 どうして・・・・・・。 どうしてこの男が・・・・・・何より「彼ら」がここにいる? それはつまり、何を意味するのかというと・・・・・・? 「・・・・・・茶番は終わりだ、『血塗れ仔猫』」 醒徒会庶務・早瀬速人は、冷徹な視線をみきに突き刺しながらそう言った――。 次回、第二部最終回。 この六話で切っても、シェアードワールド的には差し支えありません 要は最終話の展開を受け入れられるかどうかだと思います トップに戻る 作品保管庫に戻る
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ラノで読む(前後編通し、推奨) 前編へ Scene Ⅲ-Ⅱ 昼、双葉学園 「どういう事!?」 力はあるのに使えない、という発言に対して詰め寄る二人。それに応えるように、女性はゆっくりと後ろを向き、自分の背中が見えるよう髪を持ち上げる。 そこには、何かを差し込む穴……ちょうど、ねじ巻き式時計の、ねじを巻くための穴のようなモノがあった。 「私は、人間ではありません。ヒトが作った、時を操る巨兵、永劫機の一柱。名前をロスヴァイセと言います……今は、開発者の一人だったお母様と契約をしています。依代《よりしろ》は、この懐中時計です」 ロスヴァイセと名乗った彼女が、遊衣の首にかかっている瑠璃で出来た懐中時計を手に取る。目の前の、どう見ても人間の女性としか見えない者が実は人間ではない。しかもそれを作ったのは自分の母親……ちょっとどころではない驚きだが、今はそれで驚いている余裕は無い 「時を操る……永劫機?」 「永劫機、えいごうき、どこかで聞いたような……」 純粋に疑問符を浮かべる久と、何かを思い出そうとしている凛。久の疑問に答えるように、ロスヴァイセが口を開いた。 「はい。機体ごとに異なりますが、共通して『時間を操る』力を持つ、巨大ロボット、と、言えば良いでしょうか。契約を交わした方の命令を聞き、戦う存在です……あれに奇襲を受けて、戦う間も無くお母様が気絶させられてしまいました」 「それじゃあ、かわりに僕が契約をして戦えば……姉さんは、あいつと対峙したら多分、まともに頭が回らな――」 何かを決めたような久の言葉だが、ロスヴァイセの次の言葉が、それを否定する 「それは、出来ません。しかも、複数の理由が重なってます」 「複数の?」 「はい。まず一つ、多重契約は認められません。それに一度交わした契約の終了は、原則として『契約者の死、もしくは時間の枯渇』となっています……私は、お母様を殺したく、ないです」 最後の言葉に、久は黙ってしまう。ロスヴァイセは更に続ける。 「二つ、永劫機の起動には詠唱……キーコードのようなものが必要です。これは基本、契約をした際に契約者の心に直接通知されるのですが……恥ずかしながら、それを忘れてしまいました。多分、先ほどの攻撃で破損を受け、永劫機としてのシステムに障害が発生して起動不可能になってしまったのだと思います」 二人とも、納得のいかない表情となる。もはや永劫機としての力を失ってしまったのなら、どう戦えばいいのか 「そして三つ目……久さん、何らかの方法であなたと契約をして、システムが復旧して、それでも、私は貴方とは戦えません」 「なんで!? まさか、母さんに何か……」 「違います」 『自分とは戦えない』といわれた久が一瞬ヒステリックになろうとするが、それは制止される。そして、その理由は、これまでで一番意味が分からないものだった。 「永劫機を動かすには、生き物の『時間』、その人に残された、運命の残りと言えばいいでしょうか、それを必要とします。普通は、契約者からそれを貰って動かします。それについて、今『見えた』のですが、久さん……あなたには、それが『無い』んです」 「……はい?」 意味が分からない。久は、自分に『無い』ものは、記憶と魂源力ぐらいだと思っていた。それに加えて『時間』も無いだなんて。 「ええと、それじゃあ僕は、もう死んでるって、こと?」 「……分かりません、本当はそうだと思うのですが、もしかしたら、別の何か、運命をせき止めている要因があるのかもしれません。どちらにしても、貴方と契約しても、永劫機を動かすことはできません」 八方ふさがり、少なくともロスヴァイセと戦う道は無い……どうすればいいのか、久には分からなかった 「問題は、『それだけ』?」 横から、不意に声が聞こえる。さっきまで何か考え事をしていた凛だ。両頬が何故か赤い。 「そ、それだけって……はい。今の三つです」 「?」 事態を飲み込めない久とロスヴァイセをよそに、凛は遊衣の元まで歩いていき、まだ首にかかっていた懐中時計をそっと外した。それを手に取り、軽く握る。 「システムコード入力、『時は金なり』。ロスヴァイセ契約データ初期化《イニシャライズ》」 凛が発した、彼女の名前の通り凛とした響きの声に呼応するように、ロスヴァイセの目が見開かれる 「え……開発者しか知らない、システム試験用のシステムコード……なんで凛さんが知ってるんですか!? 私も知らなかったのに!?」 「ママが持ってた沢山の本やファイルを見てたらね、永劫機っていうのが載ってたの、思い出した……これでママとの契約は強制終了。後でママに謝らないと」 いたずらっ娘のように舌をぺろり、と出した凛、その様子に久は事態が飲み込めない。凛の声色が、再びマジメになる。 「続けて行くよ、システムコード入力、『止まっている時計は、一日二度、同じ時間を示す』。|優先モード《Primary.Mode》スリープ、|代替モード《Another.Mode》起動チェック」 「!?……|代替モード《Another.Mode》、チェック、オールグリーン。詠唱呪文の設定をしてください」 「呪文設定開始。これで大丈夫かな?」 「えーと……はい。|代替モード《Another.Mode》、セッティング完了です。えっと、これは何でしょうか?」 自分でも何をされたか分かっていないらしいロスヴァイセが、凛に問いかける。 「緊急時用の、機能限定版サブシステム……って、ファイルには書いてあった。これで、残ってる問題は一つだよね」 何が起こったのか、少しだけ久にも理解できた。母が持っていたなにがしかの資料を凛が盗み見ていて、それに書いてあったことを実行しているのだ。そして、再び永劫機を『戦える状態』にしているのだろう 「あ、うん。でも僕じゃ、契約しても戦えないって……」 「ロッセ、契約者以外から『時間』を供給することって、できる?」 「わ、私のことですか? はい、可能、ですが……」 「……もしかして」 久の胸に、嫌な予感が去来する。そして、それはすぐに肯定された。 「わたしの時間を使って。できるよね?」 「姉さん!!」 思わず制止する声をあげる。が、それ以外に手段が思い浮かぶかというと…… 「他には、無いよね。本当はわたしが戦いたいんだけど、あいつを見たら、まともに頭が働かないと思うから……あはは」 空笑いする凛の足は、少しだけ震えている。まだ外を歩いている怪物を想像してか、それとも『時間を奪われる』という、未知の感覚に恐怖してか。 「それに、わたしの異能が、何かの役に立つかもしれない、からね」 そう、気休めにならないだろう事まで口走る。 彼女の異能は『若返り』。睡眠をとると、それに応じた時間だけ身体が若返ってしまうというものである。その若返り速度は、普通に睡眠をとってしまうと、本来成長するはずの分がチャラとなってしまうほどである。 父親の仕事の都合と、彼女自身にかなりの魂源力があるという理由で双葉学園に転入したのが十年前、彼女が8歳の時である。それからしばらく、能力に覚醒していないと思われていたが……その能力が判明したのが、彼女が12歳の時になる。身体測定で、背が伸びていない。それどころか、縮んでいるという事実を調査していくうちに発覚した。 成人になってからならともかく、成長途上にあった凛がそんな異能に目覚めて、どんな気持ちだったのかは、なかなか想像することが難しい。だが、それをバネにして彼女が成長したことは、上で述べた。 「わたしができるのは、ここまで。だから後は、わたしの自慢の弟に任せるの」 姉の珍しくしおらしい台詞に、胸が締め付けられる。久は少しだけ目を閉じて、覚悟を決めた。 「……ロスヴァイセ。僕と、契約を」 「その言葉だけで、契約はなされました。私は、あなたに忠実な……えっと、何として振舞いましょう?」 「『わたしと久《きゅー》くん、二人のお姉さん』。ロッセも、ママの娘だもんね」 「姉さん、勝手に決めちゃって……」 「あれ、久《きゅー》くん不満? 可愛い姉に加えて、新しく美人の姉までできるんだよー?」 「あはは……」 一瞬、あたりに和やかな空気が流れるが、それも一瞬のことだ 「わたしは、ここでママと待ってる。久《きゅー》くん、勝って、帰ってきてね。帰ってきたらごほうびあげるから」 「いや、いらないから……行こう、ロスヴァイセ」 凛から投げ渡された瑠璃懐中時計を受け取った久が、校舎の陰から立ち上がる。もう少しすれば、ここを感づかれてもおかしくないだろう。その前に、こちらから打って出る必要がある 「はい、参りましょう」 上半身だけの獣と、下半身だけの獣が、久とロスヴァイセを発見する。文字通り『獲物を見つけた』二体が、じりじりと距離を詰めてくる 「ロスヴァイセ、準備はいい?」 「はい!!」 久が懐中時計を握り、登録されたばかりの呪文を唱える (というかこれ、二十年くらい前のアニメの主題歌なんだけど。姉さん、何考えてるの……) 刻が未来に進むと、誰が決めたんだ 烙印を消す命が、歴史を書き直す 刻は巡り戻ると 誰も信じてた 黒くくすんだ暦を 新たに書き直す ロスヴァイセの姿が、瑠璃色の霧となって宙に溶けていく。 彼女が消えていった空間から青い光が広がり、中心から時計が姿を表した。クラシックなねじ巻きの時計。それを中心として、フレームが伸びる。人型の、それも女性を模《かたど》った姿を作っていく。 身体の各所で歯車が回り、それを瑠璃の装甲が覆う。時計仕掛けの天女、永劫機ロスヴァイセが、その本来の姿を現した。 「えっと、|代替モード《Another.Mode》らしいけど、いけそう?」 『機能はだいぶ落ちています。本来武装として用意されている刺突剣《レイピア》も使えませんし、『時間重複』の能力にも、かなり制限がかかります……能力について、説明しますか?』 「大丈夫、契約したときに、説明は全部頭に流れ込んだ」 ロスヴァイセは、久が思ったとおりの動きを見せる。いくつか制限があるとしても、機械の巨兵としては十分動ける、という事だろう。 直後、二体の獣がロスヴァイセに飛び掛る。上半身だけの怪物はその牙を、下半身だけの怪物は強靭な後ろ足を、それぞれ武器として襲い掛かった。 だが、その攻撃はどちらもロスヴァイセを捉えることはない。真っ直ぐすぎる軌道の攻撃を、久が操るロスヴァイセはわずかに右へ身をよじるだけで回避する。その際、フリーだった左腕で獣達を打ち払う。 ”!?” 不恰好な獣達は、自らの勢いに上乗せされた攻撃で吹き飛ばされ、校舎の隅まで飛ばされた。その間に久とロスヴァイセは、先ほどまで怪物が陣取っていた場所まで駆け出し、立ち居地をちょうど逆転させる 「えっと、こういう使い方でいいのかな……」 懲りずに突っ込んでくる獣達に対して、今度は回避運動をとらない 「時間重複《タイム・リピート》、リバース!!」 久が叫んだ瞬間、ロスヴァイセの目の前の空間が、歪んだ。 突っ込んできた筈の獣が、何も無いところで吹き飛ばされる。 否、目を凝らせば見えただろう。彼らは、『自らとそっくり同じな影』に接触し、吹き飛ばされたのだ。 永劫機ロスヴァイセの能力『時間重複』、ロスヴァイセがその姿をとった際に発生した瑠璃色をした霧の空間で『今ではない時間軸』と現在の時間を任意で接続し、接続した時間軸に発生した現象を『今の時間軸』で再現する。 言葉で説明すると面倒だが、今回の場合『獣達が一回目に飛び掛った時間軸』と現在を接続させ、一回目に飛び込んできた獣達と、まったく同じ軌跡で飛び込んできた現在の獣達を正面衝突させた。そういった『現象』を起こすことができるのだ。なお、現在に反映されるのは『現象』だけであり、過去への干渉は原則不可能である。 『やはり、|代替モード《Another.Mode》では『未来の時間軸との接続』が不可能なようです。『インターバル』『同時接続数』に関してはスペック通り出せます。次回接続まで、残り三十秒』 「……やっぱ、今のだけじゃ終わらないよね」 吹き飛ばされた獣達が起き上がり、尋常ではないオーラを放つ。その直後、妙な事が起こった。 二体の獣が互いに身体を寄せ合い、自らの身体を溶かし……同化する。貧弱だった切断面の脚を互いに絡めたと思ったら、あっという間にそこがくっついてしまった。 『二体がくっつけば丁度いい』その姿が、本当に一つになった。小回りこそ利かなくなっただろうが、その身体には、先ほどまで足りていなかったオーラに満ち満ちている。 「本気、って事だよね、多分……!?」 その獣が、咆哮すらあげずにロスヴァイセへ襲い掛かる。黒い身体から伸びる爪が、回避運動を取ったロスヴァイセを捉える 『きゃっ!!』 「っ……!! 想像してたのより、ずっと痛い、これ!!」 ロスヴァイセの腹部が、中の骨組みが直に見えるほど抉られる。そのダメージは、直接契約者である久にも伝わる。痛みを必死に堪え、そのまま組み付こうとする怪物に蹴りを入れて追い払う 『パワーは、あの獣の方がある、みたいですね』 「……ロスヴァイセ、ちょっとだけ耐えてて。僕も耐えるから」 『え、久さん!?』 再び組み付いてきた獣に対して、今度は回避運動すらとらず、正面から殴りあう。 近距離で、拳と、脚と、爪と、牙を互いに交差させる。黒い獣とロスヴァイセの双方が傷つくが、ダメージは明らかにロスヴァイセの方が大きい。ロスヴァイセの一撃は獣のしなやかな身動きで回避され、その反撃は確実に、ロスヴァイセの装甲を削り取る。 苦し紛れに放ったロスヴァイセの蹴りをかわすように、獣が距離をとった。一息ついた後、次の一撃で終わらせるつもりだ。 『久さん、大丈夫ですか!? このままじゃ――』 装甲の瑠璃があちこち傷つき、欠けているロスヴァイセの叫びに、それに呼応したダメージを負った久が、それでも諦めていない、といった気迫を込めて言い放つ 「大丈夫、もう仕込みは済んだ、来てみろ怪物!!」 怪物、という叫びに獣が反応する。じり、じりりと距離を詰めてくる 『久さん、これ以上ダメージを受けたら機体が持たないかも……』 「大丈夫、もう喰らうことはない、はず」 ロスヴァイセを、一歩だけ下がらせる。それに刺激された獣が、一気に飛び出してくる……このままの軌跡では、確実にその牙が、喉笛を噛み切るだろう だが、その牙がロスヴァイセに届くことは無かった。 ロスヴァイセの目の前まで飛んできた獣が、一瞬にして引き裂かれ、噛み千切られ、殴り倒され、蹴り飛ばされる。 「……|過去からの復讐《リベンジ・フロム・パスト》」 『こちらが攻撃を放った時間軸』『獣が攻撃を放った時間軸』を、全て一度に接続させ、それまで両者が放った攻撃を同時に浴びせかける。相手が攻撃を控えたり、もしくは一撃で仕留めようとしたりすれば無論出来ない手段だ。今回は、相手が獣で助かった。 「これで……終わりっ!!」 ズタボロになった機械人形が、同じくズタボロになって吹き飛ばされてきた獣へ、大きく蹴りを放つ。 直撃を食らった獣は、校舎の方まで吹き飛ばされ……衝突する前に、霧散した。 それを確認した久は、大きく地面に膝をつく。辛うじて地面に倒れるのは避けられたが、それでも辛そうだ 「大丈夫ですか!?」 脅威が去り、人の姿へと戻ったロスヴァイセが、そちらへ駆け寄る 「な、なんとか……痛いだけ、で、怪我してる訳じゃ、ないし……」 大きく息をついて、少しだけ楽になった久が、ロスヴァイセの手を借りて立ち上がった 「……こういう時、『姉』はどういう風に振舞えばいいんでしょう?」 「いや、分からないから。とにかく、姉さんとおかあさんのところに戻ろう」 *** 双葉学園から少し離れた、島の資材置き場に一組の男女がたむろっている。どちらも大柄で、何か格闘技をやっているような感じだ。男のほうは手元で何かを叩いている。 「……アタイの子どもが、やられたみたいよ。もう『人払いの拍子』は解いていいわよ大皮《おおかわ》」 「マジかよ、だから遠隔自動なんてやるなっつったんだよ、直接乗り込めばいいじゃねえか」 手元を止めた、大皮と呼ばれた男が、女に何か抗議めいたことを言い放った。 「アタイ達がまっすぐ突っ込んで行ってハイ捕まりました、じゃお話になんないでしょ。何事も慎重に進めるべし、ってボスも言ってたわよ? 栄えある『五人囃子《ごにんばやし》』に選ばれたんだから、身体は大事にしなきゃ」 「ボス……ねぇ。つっても、幹部の一人だろ? 他の幹部達はどう丸め込むのよ」 「アンタ、ボスを愚弄する気? 生きがいの『開発局』を潰されたくせに反抗一つしない腰抜けたちなんて、ボスが一息で吹き飛ばしちゃうわよ」 「はいはい。仕事終わりなら、俺ぁ先にあがってるよ」 男は立ち上がってそそくさと立ち去るが、女はそこに残ったまま、物思いにふけっている。 「そうよ、オメガサークルは、あんなヤツラが率いてちゃいけないのよ……学園のヤツらを潰して、ボスが正しいってのを証明してやるわ……!!」 *** Scene Ⅳ 夜、双葉区住宅街 その日は、久と凛、二人ともそのまま早退する事となった。久は全身の痛みで授業どころではなかったし、もう一方の凛も、原因不明の身体の痛みと発熱を訴えたからだ。 「確かに、戦いの代償でかなりの『時間』を使ってしまいました……でも、それと身体の調子がおかしくなるのとは、別問題の筈です」 ロスヴァイセはそう言い、永劫機の開発者(末席ではあったらしいが)である母、遊衣もそれに同意した。 「永劫機に時間を奪われて、こういう状態になった人は見たことが無いわね……急速に老いたり、若返ったりという人は居たけれど」 システムコードで永劫機との契約を解除してみれば、という久の発言に、遊衣は首を振った。 「凛が使ったのは、|一回限りの《ワンタイム》パスワード、一度使ったら別のものを再発行する必要があるの。そして、既に破棄された永劫機計画に、パスワードを再発行する設備は無いわ……自己修復能力で、いずれ|優先モード《Primary.Mode》へは自動で切り替わると思うけど、契約の破棄はたぶん無理。凛の病状が良くならないのなら、昔の知り合いを当たってみるしかないわ」 頬に手を当て、難しそうな顔をする。珍しく遊衣に笑顔は無い……なお、自分達を襲った怪物には、覚えは無いらしい。単なる自然発生のラルヴァだったのだろうと考えている 就寝前、何を言ったらいいか分からないまま、久は凛の部屋の前に立っている。寝てたらまずいかな……といった思いを抱えながら、ドアを軽くノックした。 『その音は久《きゅー》くんかな、入っていいよー』 姉の、少しだけ元気のなさそうな声を聞いた久が部屋に入る。カーテンやカーペットはピンクが基調だったり、あちこちでぬいぐるみが見ていたりと、いかにも女の子らしい部屋だ。 「姉さん、まだ痛む?」 「そこそこ、かな。久《きゅー》くんこそ、もう痛くない? 相当無理したって、ロッセが言ってたよ」 「僕なら大丈夫だよ。原因は分かってるし、ただ痛いだけなんだから」 ベッドから身体を起こして、凛が手を振る。少し呆れた表情の久は、ベッドの横へと座った 「……うん、ちゃんと勝って、帰ってきてくれたね。やっぱり久《きゅー》くんは、わたしの自慢の弟だ」 心底から嬉しそうな凛の笑顔を見ると、力が湧いてくる。この三年間もそうだし、もしかしたらその前から、ずっとこの笑顔に力を貰っていたのかもしれない。久は、珍しく昔のことを、そんな風に思った。 「……そうだ、ちょっとこっち来て」 凛が、久を枕元に手招く。 「なに? また耳に息吹きかけるとかは無しだからね」 久が、ぶつくさ言いながら顔を寄せ…… 「んー……♪」 「……!?」 その頬に、柔らかい感触を当てられる 「ごほうび、汗っぽいのは、ごめんね。ちょっと寝るから、お休みー」 凛は、苦しそうなのと照れくさいのを混ぜたような表情で笑ってから、布団を頭から被ってしまった。久は 「……いや、だから、いらないって……」 と、動転して言葉が出ないまま、部屋を追い出されてしまい、眠る事となる。 その日の夜も、久は夢を見なかった。 だから、その出来事のすぐ後に、久は朝を迎えることとなった。いつもどおりの朝を。 Epilogue 朝、双葉区住宅街 ゆさり、ゆさりと身体を揺する振動で、意識が戻ってきた。風船が空気を入れられるように……そう、いつもと同じように 「……ら、朝……よ……」 意識がはっきりする前に、少年がうっすらと目を開けた。これも、いつもどおり 「ほら、久《きゅー》くん、起きてー、朝だよー!!」 昨日の朝と同じように、凛が制服を着て、久の上にまたがって身体を揺すっている。昨日と違うのは、声に何か驚いたような響きがあるのと、凛の座っている位置……マウントポジションよりも下に位置し、久の下腹部に身体を乗せている。そして、身体を揺する動作が危険すぎる。朝の生理現象が起こっていないのが幸いだ(幸いなのだろうか?) 「姉さん……狙ってるでしょ」 「何かは分からないけど、起きた起きたー」 凛が飛び降りるのに呼応して、久も身体を起こす。そこで、彼はようやく違和感に気づいた 「……待った、姉さん大丈夫なの!?」 昨晩まであれだけ苦しがっていた姉が、ピンピンしている。まさか今までの全部夢だったんじゃ……と、一瞬思ってしまう程に。夢というのは、ああいう感じなのだろうか。そう思って一気に頭が覚醒したところで、凛が畳み掛ける 「そうそう、聞いてよ聞いてよ久《きゅー》くん!! 朝起きてね、シャワー浴びてから背測ってみたんだ、そしたらね、背が2センチも大きくなってたんだよ!!」 「……はい?」 「成長痛!?」 「ええ、恐らくね」 下に降りてきた久は、ロスヴァイセの用意した朝食を食べながら、三人から事情を聞いた 「今朝、凛ちゃんを見てビックリしました。昨日の戦いで、人の時間に換算すると十年ぐらいは『時間』を費やした筈なのに、今日見てみたら、数ヶ月程度しか消費していないのですから……多分あの痛みは、急激に身体の『時間』を進めてしまったせいで、身体が成長に追いつこうとして無理をした結果だと思います」 それに加えて、ロスヴァイセは補足を加えた。彼女と遊衣の推測ではあるが。 凛の異能は、単なる『若返り』などではなく、人が生きていくために消費し、決して戻らない筈の『時間』を、自動で補充するものなのではないか。そのために、永劫機に喰われたはずの『時間』がある程度補充され、差分が彼女の『成長』に現れたのではないか、と。 「つまり、どんどん永劫機を呼び出せば、その分大きくなれるのよね!?」 普段はあまり気にしないが、流石にコンプレックスはあるのだろう。そんな質問をしてきた凛に、遊衣は頭を抱えて返事をする 「危険すぎるから駄目よ、誤って時間を喰いつくされたら、取り返しがつかないんですから」 「えー」 ふてくされている凛をスルーして、ロスヴァイセが久に話しかける 「……そうだ、久さん。久さんは確か、異能が無いという話でしたよね?」 「ん? うん、魂源力が無いからって話で……」 「……いえ、久さんには異能の力があったのだと思います。そうでなければ、永劫機との契約自体が不可能な筈です」 「そうなの? 魂源力無いのに、そういう事もあるんだ」 その二人の話を横で聞いて、遊衣が驚いた表情を見せた……が、それも一瞬のことで、すぐにそれは笑顔で塗りつぶしてしまう (久に、異能がある? そう、考えてみれば、でなければ契約できない……でも、有り得ない。異能があるのなら『彼』の立場に居てもおかしくないのに……捨てられることも、なく) 「別に呼び出してもいいのに、加減を間違えなければいいだけじゃない」 「無茶言わないでよ姉さん」 朝の出来事のせいで愚痴ばかりの凛を引きずりながら、久がいつも通りの通学路を歩く。二人の鞄の中には、ロスヴァイセの作った弁当が揺られている。 「あら、お二人とも……おはようございます、お身体は、大丈夫ですか?」 「おっはよーもこちゃん、大丈夫、ごらんのとーりだよ」 「見ての通り、僕も姉さんもピンピンしてる」 いつも通り、ご近所さんの豊川もこと一緒に学校へ向かう 「そうだ、昨日のお昼休みなのですが……高等部棟の近くで、楽器……そう、鼓《つづみ》の音がしませんでしたか? お昼の間、ずっと聞こえていたのですが」 「さあ? すぐ近くに居たけど、聞こえなかったよ」 こうして、安達姉弟の生活は続いていく、一部はいつも通りで、一部は急激に変わりながら。 十年間止まっていた時計の針が、また一つ動き始める。 それとは別に、三年前に止まった針が動き始めるのも、もうすぐそこまで来ていた。 トップに戻る 作品保管庫に戻る
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ラノで読む 1999年7の月というのは、かの有名なノストラダムスの大予言にある「恐怖の大王」が君臨する時だったらしい。「らしい」というのは、当時あたしがまだ7歳で、そんな話を聞いたことが無かったからだ。 けれども、その日……恐怖の大王ではない何かが、あたしの人生を根底から動かしたのは、否定しようも無い事実だ。 世界中で「これこそ恐怖の大王だ」という話はあったらしいが、あたしはそうは思わない。 だって奴らは、幸せのうちに統治する、なんて事はしないから。 【金剛の皇女様】 Capture 0 「1999年7月某日」 草原の真ん中に、目をつむって立っているあたし。 黒い何かでべっとりと汚れてしまった、お気に入りのワンピース。 身体のあちこちを噛み切られて、いたるところに伏している複数の人影。息をしているのも、していないのもあるけど、どちらにせよ長くは持たないと思う。 そして、あたし達を取り囲む三つの黒い獣。 口から血を滴らせて、そこだけ真っ赤な獣。イヌかな、オオカミかな。どちらにしても、こんなに真っ黒いはずは無い。まるで、お月様が出ていない夜の、森の中みたいに黒い獣。 『わけが分からない』 『このまま死ぬのはイヤだ』 普通だったら、そう思う場面なのかもしれない。 けれど、あたしは確信していた。 『つぎに目をあけたときには、ぜんぶおわってる』 轟音と共に、獣のうちの一匹が吹き飛ばされる。放たれたのは単なる鉛球で、悪魔を殺すことはできない。 それでも、こいつらには十分だったみたいだ。一匹はもう動かない。驚いた二匹は、あわてて逃げていく。 「なんてこった……」 「おい、そこの君! 大丈夫か!!」 あたしが得意じゃないほうの言葉で、誰かが呼びかけてくる。 『うん、大丈夫』 そう返事をしようと思ったけど、すごくねむくって、そのまま倒れこむ。 もう、だれもおこしてくれないのかな、と思いながら。 「……なつかしー……」 それほど柔らかくない布団に包まれ、似たような枕に埋もれて、あたしは目を覚ます。 最近めっきり見なくなった、昔の夢。 あまりに衝撃的すぎて、忘れようとする努力すら無駄な出来事。 あたしの人生を決定付けることになった、夏の日の悪夢。 枕元に置いていた目覚まし時計に目をやると、まだセットした時間ではない。けど、起きるにはいい時間だ。 「んっ……うーん」 ベッドから上半身だけ起こして、大きく伸びをする。どこかでバキッ、という音が聞こえた気がしたが、気にしないことにする。 「……ててっ。よしっ、今日もがんばろー」 Chapture 1 「少年と女教師」 東京都24番目の区、双葉区。その中心としてそびえる双葉学園は、異能者を育てて怪異を討伐する専門の教育機関だ。とはいえ、育てられている彼等はあくまでも学生である。実際の扱いはともかくとして。 今、高等部の校舎内を爆走している彼、錦龍《にしき りゅう》も、それは同じことだ。 「間に合うっちゃ間に合うけどよ……!!」 ホームルームまであと2分。今居る1階中央口から、クラスがある3階までは彼の足なら1分で行けるだろう。そう信じて廊下を走り抜ける。 壁際を駆けている際に何かと接触したような衝撃が走るが、多分壁だろう。気にしないで階段まで加速、三段飛ばしでそれを駆け上り、手すりに捕まって無理やり方向転換。そんな事を繰り返しながら、まだ開いているドアから教室に滑り込む。 足下からホコリが舞い上がるほどの勢いがついてしまい、止まれない……と思った瞬間には、誰かに足をかけられていた。 「のわ、たぁぁぁぁ!!」 龍はそのまま派手にスッこけ、まるでブレイクダンスをしているかのように壁際まで一直線に転がる。幸い壁へ衝突とはならず、壁際でビタ止まりする。 「よードラ、重役出勤ご苦労さん」 「うっ、せぇ、トラ、すき、で、やって、ん、じゃ、ねぇ……」 足を引っ掛けた張本人である中島虎二《なかじまとらじ》が椅子越しにこっちをニヤニヤ覗き込んでいる。周りからはクスクスとかワハハとか笑い声が聞こえる。彼等にとってはいつもの事だ。 錦龍と中島虎二は、幼稚園からの幼馴染。いわゆる、腐れ縁というものだ。スポーツマン然とした風体で、今でも空手を続けている龍と、中世の貴族然とした(現代の人間がイメージする)美形であり、勉強は出来るが運動神経ゼロの虎二。正反対なところが良かったのか、不思議と馬が合った。 あまつさえ、両者に稀有な『魂源力』が備わっているという。それが縁で、この双葉学園高等部に編入する事となり、またもや同じクラス。腐れ縁は今も絶賛継続中だ。 編入されてから三ヶ月、龍は『異能』の使い方をあっさり掴んだ。一方の虎二は未だそれを掴んでいない。その代わり、勉学に関して龍は、虎二の書くノートに頼りっきりだ。 そういう意味では、相変わらずバランスがとれている。 なお、互いのことを「トラ」「ドラ」と呼び合うが、昔アニメ化してた小説はあんまり関係ない。というか両方とも男だ。 「そろそろ座らないとせんせーさんが来るっすよ?」 「わーってる、と!」 誰かの声に反応し、ひっくり返った状態から身体のバネだけで起き上がる。軽く虎二の方を睨むが、完全にスルーされる。憮然とした表情のまま自分の席に着き、学生鞄から諸々の勉強道具を取り出す。あんな状態でも鞄だけは手放さなかったのが不思議だと思ったところで、学内に予鈴が鳴り響いた。 学生の本分である、勉強が始まるわけだ。 予鈴が収まると同時に教室前面のドアが開き、黒いファイルとプリントを抱えた女性が入ってくる。 背の丈は成人女性にしてはやや低め。それだけならば良いのだが、それ以外が問題。 水色のチェニックにロングスカートという服装、童顔な上に黒髪を顔の両側からお下げにし、さらに起伏がほとんど見られない痩せすぎのボディライン。なお、近くで見ても顔にシワは見えない。 制服を身に着けていないという点で中等部、高等部生徒でないことは明白だが、かといって大学部の学生にも見えない。流石に初等部は有り得ない。 クラス委員がやる気がない起立、礼、着席をこなし、再び全員が着席したところで、女性が口を開く。 「おっはよー。今日も一日がんばろー。それじゃ出席とるよー」 そう、彼女が双葉学園高等部1-B、通称「鋼のB組」担任、春奈・C・クラウディウス《はるな・クラウディア~》、27歳。 日英ハーフであるという話だが、容姿を見る限りはいたって普通(幼く見える所も含めて)の日本人女性である。 あまりに似合わないファミリーネームの為、学生からは「春奈先生」「春奈ちゃん」もしくは「せんせーさん」で通っている。 教養の担当学科は現代国語、それとは別に高等部の異能力学科で『初級ラルヴァ知識』、及び『集団戦闘』を受け持っている。 黒い表紙の出席簿と首からかけている教員証を除いては、教員らしい外見要素はゼロである。実際大学部を歩くと間違えられる。 「そうそう、錦くーん……」 出席をとり、各種の連絡事項が終わったところで、声をかけられる 「はい?」 「遅刻しないつもりなのはいいけど、ちゃんと周囲を見て歩こうね……」 ぷるぷると肩を震わせている春奈を見て、一瞬で思いだす。さっき疾走していたとき衝突した感覚は…… 「! す、すみません!!」 「……まあいいや、他の人にはやらないように。それじゃホームルームはここまで。また午後にねー」 手を振りながら教室を出て行く春奈を見送り、教室内がにわかに騒がしくなる。 頭を抱えて座った龍の後ろから、虎二がペンでつっつてくる 「おいドラ、何やったんだよ」 「……多分、今朝の接触事故相手だ」 「側面不注意でマイナス1点だな」 「何が」 午前中の授業を、龍はあまり覚えていない。一般学科ばかりであった事と、今朝の全力疾走による疲労が堪えたのか、見事に熟睡だった。 絶妙のタイミングでフォローを入れてくれた虎二に感謝をしなくてはいけない。 「さあ、感謝の気持ちを伝えるには最適、昼メシの時間だ!」 「イヤに即物的だな」 昼休みの学食は、当然のように混む。学園は非常に広く、学食も複数存在する。さらに建物の外には学生向けの飲食スポットもあるのだが、やはり学食は目玉スポットであり、味や値段にバラツキはあるものの、どの学食も非常に込み合う。 「なーにをおごってもらおっかなー」 「俺がおごるのはA定だけだぞ」 そう言いながら、虎二にチケットを渡す。サンキューという言葉を残してとっとと先に行ってしまった。 高等部棟近くで一番の人気メニューであるAランチ。俺達はA定と呼んでいるが、定食と略す割りにメニューは日替わりだ。支給される学食のチケット一枚で頼めるのも好印象。券売機に並ばなくてすむ。とは言え、今日の龍はA定という気分ではない。ぶらぶらと券売機の方に向かう……と、微妙に混雑している。 「……先生、何やってるんすか」 「あ、錦くん? ……いやね、どっちにしようかなって」 混雑の原因は春奈先生。券売機の前で財布の中身とにらめっこしている。 彼女の視線の先にはカレーライスのボタン。どうやら『普通』と『大盛』で悩んでいるらしい。 「ダイエットでも?」 まず有り得ないと思うが、一応聞いてみる。彼女にそぎ落とす肉があるとは思えない。 「まっさかー。手持ちが少ないんだよ……」 とほほ、という表情と共に財布の中身を見せる先生。確かにこれでは、大盛を買ったら缶コーヒー一つまともに買えない。面倒だったので、券売機に大盛カレーの金額(310円)を突っ込みボタンを押す。 「……!?」 「これで、朝の事はチャラってことで」 「うわ、ほんとにいーの!? ありがとー!!」 飛び跳ねそうなくらいキラキラした表情を見せ、出てきた券を大事そうに持って歩いていく。 「給料日前だったっけ?……手持ち少なすぎだろ」 愚痴をこぼしながら列の最後尾に向かう。この長さだと何分かかるやら。 午後の授業は、五限目、六限目と春奈先生の授業が続く。前半は現代国語、本日の一般科目ラストだ。 「~という所までを、中島くん読んで」 「ちょ、せんせー! 今まで席順で指してたのにドラはスキップですか!?」 「ふふふ」 「ふふふ、いいから読みなさーい」 しぶしぶ立ち上がった虎二が、一連の文章を読み終える。 「さて、今中島くんに読んでもらった文で、明らかに主語と述語の関係がおかしかった部分があります。 ……錦くん、それはどこでしょう?」 「フェイントですか先生!」 後半は『初級ラルヴァ知識』。異能力学科のため、周りの目も比較的真剣だ。ただ、今の授業内容は「ラルヴァが持つ知能のレベルについて」であり、対ラルヴァ戦で既に活躍しているような一部生徒には、退屈ともいえる内容である。実際、約一名が熟睡している。 「加賀杜さーん、ちょっとまじめな話しますよー」 「ふぇ?……あ、ごめんなふぁい……」 「実際、今までの所は、もう知ってる人も結構居たでしょうからね……少しだけ、話を変えましょう」 先生が教本をパタン、と閉じる。 「さっき話したとおり、ラルヴァの中には人間を超える知能を持った個体も存在します。ならば、人類がラルヴァに対して持っている、明らかに優れたものは何でしょう?」 春奈先生の質問に、一同が考え始める。なかなか答えが出ないのを見たのか、ヒントを出す。 「もっと突き詰めて言うと……人類とラルヴァの大規模戦闘、いわゆる『悪魔の軍勢との戦い』では、人類は未だ負けなしです。局地的に負けていても、必ず巻き返し、失地回復をしています。どこかで負けてたら、多分大陸の一つは持っていかれてたでしょうね。……さて、なぜ負けないのでしょう?」 ヒントは数人を混乱させた一方、別の何人かがピンと来た顔を見せ、その中から一人が挙手する。 「姫川さん、どうぞ」 「はい。メンバーの連携……チームワーク、ですか?」 彼女、姫川哀は、同じクラスの伝馬京介、氷浦宗麻の両名と共に、ラルヴァ討伐チームの一員として活躍している。その回答に歓声が上がるが、先生の解説で、再び沈黙が訪れる。 「チームワーク……惜しいですね。数匹単位では、狩りの本能を利用して集団戦を仕掛けるラルヴァは存在します。でも、方向性は間違っていません……もうちょっと、視野を広げてみましょう。 数十から数百単位、あるいはもっと大規模な戦闘では、個々の能力はもとより、全体の戦況を見通した戦術、さらには戦略が要求されます。人類には、数千年前から繰り返し繰り返し培ってきた、戦術、戦略があります。ダテに身内で争っていた訳じゃないですね。組織だった異能者の育成が遅れ、不利な人類側が勝ってこれたのは、これらの積み重ねがあってこそ、です。それらを駆使するラルヴァの指揮官的存在は、現在確認されていません。高い知能を持つラルヴァでも、自分の能力を過信したり、集団戦の指揮に慣れていなかったり、というのが多いですね。 ……逆に言うと、ラルヴァが戦術、戦略を駆使するようになってからが、本当の勝負なのかもしれません。 大学部では、異能に関する歴史を研究する学科や、対ラルヴァ戦に特化した戦術を研究する学科もあります。興味がある人が居たら、資料を取り寄せておくので、言ってくださいね」 そこまで話し終えたところでチャイムが鳴り、教室がため息で包まれる 「お、ジャストで終わったー……せっかくですし、とっととホームルームやりましょうか」 「よっしゃ、終わりー!!」 ホームルームも終わり、教室が開放的な空気で満たされる。適当にダベッている者、クラブ活動や委員会の活動に移る者、早々に帰る者。龍はその真ん中、空手部の活動に出るため早々に教室を出ようとする。 「おーいドラ、お前はいいなー、やれる事があって」 虎二が少し羨ましそうに、出て行く龍に声をかける。 「お前も何か見つけろよ、俺より頭いーんだから、そっち方面で行けって」 軽口を叩きながら、龍がそのまま教室を後にする。 「……なーんか、ありゃいいんだけどなぁ……」 Chapture 2 「Before1999の憂鬱」 高等部職員室で赤ペンを走らせていると、これが本当の職業じゃないか、という気がしてくる。 実際に教師は本職であるが、それとは別に、異能の力など関係ない、ただの一教師として……あの1999年が無ければ、そんな未来も有り得たのだろうかと、感傷に浸ることもある。 「……ふう」 小テストの採点が一息つき、テーブルに置いた飲みかけの缶コーヒーを一気にあおる。錦くんに昼食をおごってもらったおかげの一本だ。重ね重ね彼には感謝。そうやって息を抜いた後、春奈は引き出しからプリントを取り出す。 彼女が担当するクラス、1-Bの生徒32人の名簿であり、名前の横に数字、もしくは文字『特』『無』の文字が振られている。 そのプリントとしばしにらめっこしていた彼女だが、横に座っている同僚の木津先生から声をかけられる 「春奈先生、そろそろ向かわないと間に合わないんじゃないですか?」 「ウソっ! もうそんな時間!?」 そんな風に声をかけられて時計を見ると、約束の時間まで一時間ちょっと。バスの時間まではあと数分も無い。 「ありがとーございますっ!!」 慌ててプリントをバッグに突っ込み、そのバッグを掴んで駆け出す。 「……自分のスケジュールを把握されてて違和感を覚えないって、鈍感すぎ」 慌てて出発直前のバスに駆け込み、揺られること一時間。そこから少し歩いた住宅地に、その建物はある。一見普通の和風建築、だがその中が魔窟と化していることを彼女は知っている。 「どうぞ、お入りください」 メイド服の少女に案内され、家の中に入る。迂闊に足元の物を踏まないように注意し、奥の部屋へ向かう。 「クラウディウス先生をお連れしました」 『……? ああ、春奈先生ね。入ってちょうだい』 扉越しに声をかけられ、先ほどよりもより注意し、物が溢れた一室に入る。 「久しぶり~、元気してた、那美さん?」 「まあまあって所ね。あなたこそ、全然大きくなってないじゃない」 「それはほっといて……お願いだから」 異能、特にラルヴァ研究者である彼女、難波那美とは、同い年という事もあり懇意にしているが、それだけではない。 『似たもの同士』 互いに1999年、運命を捻じ曲げられた者としての共感があるのだろうか。 「へぇ。高校からの編入で、未覚醒者が半分ぐらいだったのに、もう大半が使いこなせてるの?」 「あたしは何にもしてないよ、みんなの飲み込みが早かっただけ」 大まかな能力概要とレベルを書いた生徒名簿(名前の部分は、念のため仮名にしている)を見せ、今後について相談する。 「それで、これがチーム分けね……強能力者と目覚めたばかりとのツーマンセルね。まあ、こんな所じゃないかしら。能力詳細知りたいとこだけど」 「流石にそれは、プライバシーがあるから」 だいたいの能力とそのレベルは学園の機材で調査されているが、それで分からない部分も多々存在する。そこのあたりは互いに信頼し、自己申告で確認している為、迂闊に洩らすことは出来ない。 「さて、次はあなたね……準備いい?」 「バリウムみたいなのはダメ、今日はたくさんお昼食べたから」 「んなもの使わないわよ」 「……最近、能力使ってないでしょう?」 「まーね、使う機会ないし」 「そんなに頻繁にあっちゃ堪んないから」 「那美さんはその点、基本は単純だからねー。活躍は聞いてるよ」 「まあ、そこら辺は適当にやってるわ」 検査が終わり、春奈がチェニックを羽織る。 1999年に発生したラルヴァの大量発生、その前後に異能に目覚めた能力者は、色々と特殊な力を持つという。那美の『荒神の左手《ゴッド・ハンド》』は、その圧倒的な破壊力と、能力の発現原因(伏せられているが、ラルヴァに寄生されているという噂がある)という点で異彩を放つ。 一方で、春奈の『ザ・ダイアモンド』は、いちおう超能力派に分類されるだろうが、その使用法が極めて異質である。 「で、あなたの力、ようやく原理が掴めてきたところだけど……応用範囲無限大ね、これ」 「ヘタに応用しようとしたら、あたしの居場所無くなっちゃうって。ただでさえアレなのに」 春奈は苦笑いを浮かべ、バッグを抱えて立ち上がる。 「もう帰るの?」 「あんまりノンビリしてると、バスなくなっちゃうし」 「ん、じゃあまた……一月後くらいにね」 軽快な足取りで部屋を出て行く春奈の後ろ姿を見つめる那美の目には、少し呆れが混ざっていた。 帰りのバスに揺られながら、春奈はノートを広げる。中には、古今東西、史実フィクション取り混ぜた様々な『戦い』の記録が記されている。 「……うーん……」 何かを考えながら、ノートにシャーペンを走らせ、何かを書き加えている……これで、降りるバス停を乗り過ごすのは、日常茶飯事だ。 後編へ トップに戻る 作品投稿場所に戻る
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ラノで読む 斉藤《さいとう》加奈子《かなこ》は悩んでいた。 「また二キロも増えちゃった……」 風呂上り、体重計のメモリを見てため息をつく。最近運動を怠り、間食が多かったせいか、体重が増えてしまった。加奈子は自身が思っているほど太っているわけではなかったが、モデルに憧れているためほんのわずかな体重の増加にも過剰な反応を示してしまっているようである。 加奈子は自分の腹をつまみ、このままじゃダメだと決意を決める。 ダイエットをするんだ。今年こそちゃんと痩せて、夏には可愛い水着が着られるようにならなくちゃ。そうすればきっとスカウトだってされるかもしれない。 異能者でもない自分がこの学園にいても華々しい活躍は期待できない。芸能界に行って楽しい将来を送るのだ。そのためにも自己の肉体管理はしっかりしなくちゃいけない。 しかし、それから様々なダイエット方法をためしてみたものの、加奈子の満足のいく結果は出なかった。 「はあ。どうしてなんだろ。やっぱりすぐ飽きちゃうのがいけないのかなぁ」 ある日の朝、登校した加奈子は教室の机に突っ伏して肩を落とす。自分の性格にとことん嫌気がさしているようだ。 バナナダイエットもにがりダイエットも寒天ダイエットもどれもダメだ。運動するダイエットはすぐ疲れてしまってやる気が出ない。元来怠け癖のある加奈子にはダイエットなんて無理なのだろう。 だがそれでも加奈子は「簡単にダイエットできる方法」を模索していた。 いっそ痩せる異能でもあれば……そんな都合のいい妄想もしてしまう。 「ねえ大変だよ加奈子! ちょっと来て!」 加奈子がぼんやりとしていると、友人が彼女の手を引いて廊下へと引っ張った。今は仲間内でバカやっている気分じゃないのに。そう思いながらも友人との関係を無下にもできずに、彼女は廊下へと出て行った。 「あれよ、あの子見て」 友人が指差したのは、登校してきて廊下を歩いている一人の女子生徒である。 その女子生徒は、驚くことに凄まじく痩せ細っていた。 頬はげっそりとこけ、手や足はマッチ棒のように細くなっている。顔色は悪く、足取りは妙にふらふらしていた。 「なにあの子。大丈夫なの?」 「大丈夫じゃないわよ加奈子。だってあの子W組の岸本《きしもと》早苗《さなえ》さんだよ」 「え? 早苗? W組の!? 嘘よ!」 廊下の角で女子生徒を覗き見していた加奈子は思わず驚きの声を上げてしまい、慌てて口を両手で塞ぐ。 加奈子の知っているW組の早苗と言ったら、まるで肉まんのように丸々と太った女の子だからである。 加奈子が一番嫌悪しているタイプである。 醜く肥え太った女。それだけには絶対になりたくないと思っていた。 その太っていた早苗があんなに痩せ細っているとはどういうことなのだろうか。加奈子は好奇心と羨望を彼女に抱き始めていた。 「絶対変よねあれ。やばい薬でもやってるんじゃないのかしらね」 友人は小声でそんなことを言っていたが、加奈子の耳には届いていなかった。ただなぜ早苗が痩せたのか、それだけが気になっているようだ。 その日の放課後、加奈子は下校しようと学園敷地内を歩いている早苗に接触を図った。 「なあに斉藤さん。わたしに話なんて、珍しい」 早苗は生気の無いような虚ろな瞳で加奈子を見つめた。こうして早苗と話をするのは初めてであったが、人見知りしている場合ではない。 「ねえあんた。なんでいきなりそんなに痩せたの?」 「さあ。なんのことかしら」 加奈子は単刀直入に切り出したが、早苗はあっさりと誤魔化した。加奈子は腹が立ったが、ここで掴みかかっても仕方がない。 「お願いよ! 私も痩せたいのよ。あんたが痩せた方法を教えなさいよ! ううん、頼むから、お願いですから!」 加奈子がぱんっと両の手を合わせて頭を下げると、早苗は「仕方がないなぁ」と言わんばかりに嫌な顔をして、ポケットからメモ帳を取り出した。 「わかったわ。あなたにだけ教えてあげる。住所を書くからそこに行ってきてね。わたしが直接話すより簡単だわ」 「ありがとう早苗! 恩に着るよ! 友達になろう! 今度メアド交換しようね!」 加奈子は適当にそんなことを言い、早苗のメモをひったくってその場を後にした。 住所の記された場所には高層マンションが建っていた。 『象牙の塔』という大層な名前のついたそのマンションの入り口をくぐり、加奈子はその最上階のとある部屋を目指した。 扉の前に立ち、緊張して高鳴る胸を押さえて、加奈子はブザーを押す。 ピンポーンという軽快な音が響いた数秒後、インターホンから声が聞こえてきた。 『どちら様?』 それは若い女の声だった。相手が男だったら部屋で二人きりになるのは嫌だなと思っていただけに、少しだけ加奈子は安心したようである。 「あ、あの。私斉藤といいます。早苗さんにあなたのことを紹介してもらったんですけど……」 恐る恐るそう返事をすると、 『……入りなさい』 という声と共に施錠が開けられる音が聞こえた。加奈子はノブに手をかけて扉を開き、部屋の中へと足を踏み込んだ。 部屋には異様な光景が広がっていた。 真っ黒なカーテンで窓は閉め切られて薄暗く、数本の蝋燭の火だけが辛うじて周囲を見渡せるほどに照らしている。部屋の中には髑髏やヤギの頭、蝙蝠の剥製といった悪趣味なものが飾られていて、本棚にはBL本が並べられ、魔改造されたフィギュア類が所せましと置かれている。 そんな混沌とした部屋の中心に一人の女性がいた。 その女は黒いとんがり帽子を被り、黒いドレスを身に纏っている。さながら“魔女”のようだと加奈子は思った。 魔女はベージュ色の椅子に腰をかけていた。いや――と加奈子は目を疑う。魔女が腰を下ろしているのは椅子ではない。 「ひい! な、何してるんですかこの人!」 魔女の尻の下にいるのは人間だった。パンツ一丁の若い男が四つん這いになり、自らの肉体を椅子にしていた。半裸のその椅子男の顔にはガスマスクがはめられていて顔は見えないが、犬用の首がつけられ、そこから伸びる鎖は魔女の手が握っていた。しかもそれは一人だけではなく、それぞれ座面担当、背もたれ担当、ひじ掛け担当が二人で計四名の人間椅子が気色悪くより集まっている。 「ああ、気にしないでちょうだい。この子たちはあたしのペットなのよ。あたしに貸しがある癖にお金が払えないっていうんだから体で支払ってもらってるの」 魔女は紫色の唇を歪めたが、それは笑っているというよりもどこか不気味さを感じさせる表情であった。 「あの、岸本早苗さんが痩せた理由を、あなたが知ってるって聞いて……」 「ふうん。岸本、早苗ね……ああ、あの“ぽっちゃり”とした女の子のことね。覚えてるわよ」 魔女がそう言うのを聞き、加奈子は早苗の言っていたことが本当だったと歓喜した。早苗は病気か何かでああなったわけではなく、この目の前の魔女によって痩せるための手助けを受けたのだろう。 「私も早苗みたいに痩せたいんです! お願いします! 私にも痩せるための秘訣を教えてください!」 加奈子は魔女に頭を下げる。ちらりと窺うように魔女の顔に目を向けると、彼女はしばし考え込むようにして長い爪にマニキュアを塗り始めていた。 「ううーん。別にいいんだけどねぇ。あんた、お金はあるの?」 「え? あ、あのいくらですか?」 「あの子には十万で譲り渡したわ、アレを」 「アレ?」 加奈子が頭にクエスチョンマークを浮かべている間に、魔女は机の引き出しからとあるものを取り出した。 それは小瓶だ。 真っ黒な色をした小瓶で、中に何が入っているのか一切わからない。 「なんですかそれは?」 「これが早苗とか言う子にあげたものよ。これがあれば貴女も痩せることができるわ」 「本当ですか!」 加奈子は咄嗟にその小瓶に飛びつこうとしたが、ひょいっと魔女は手を引っ込めた。 「ああ!」 「誰もタダであげるとは言ってないわ」 「でも私十万なんて大金……」 持っているわけがない。小遣いを貰えばすぐ浪費してしまう加奈子には貯金すらなかった。いや、売れるものならいくらでもある。 「大丈夫です。服でも鞄でもいくらでも売ってお金にしますから、それを私に下さい」 「そう。ならいいわよ。代金は効果があったら時に後払いしてくれればいいわ」 意外にもあっさりと魔女はそう言って小瓶を加奈子に手渡した。 「これ、|それ《・・》の使い方が書かれてるから」 ついでに取扱説明書のようなメモ帳を加奈子に握らせて、魔女はくいっととんがり帽子のつばを上げた。 「取扱説明書をよく読み、用法、使用上の注意を守ってお使いください。それじゃあまた会いましょう」 魔女は最後にそう言って、加奈子はマンションを後にしたのであった。 アパートの自室に帰った加奈子は、すぐさま鍵をかけて閉じこもった。 使用上の注意その1。蓋を開ける際には光の無い空間で行うこと。 その言葉に従い、加奈子は雨戸を閉め、電気を消して一切の光源を遮断する。ポケットから魔女の小瓶を取り出し、その蓋を開けてみる。 そうして瓶を覗き込むと、奇妙な光る物体が中に入っているのが見えた。 「わあ、すごい」 その光る物体は瓶の中からゆっくりと出てきて、ふらふらと部屋の中を浮遊し始めていた。加奈子は蓋を開ける前に読みこんだ取扱説明書の内容を思い出す。確かあの光に触れればいいのだ。 「触るのね、これに」 加奈子はおっかなびっくりにその光に両手を伸ばし、包み込むように挟み込んだ。 するとその瞬間、激しい疲労感が加奈子を襲った。マラソンでも走った後のような体のだるさと、空腹感が全身を襲い、立っていられなくなって膝をついてしまった。 「はあ……はあ……」 これは辛い。だがその分効果はありそうだと加奈子は思った。 使用上の注意その2。光の玉に光を与えてはならない。使用が終わったら遮光性の瓶の中に仕舞うこと。 その通りに光の玉を瓶に再び封じ、加奈子は体重計へと向かった。 その結果、体重は五キロも落ちていた。 「すごい! やった! すごい! うわあああああああ!」 加奈子は飛びあがって喜んだ。これを使えばどれだけお腹いっぱい食べても、どれだけ運動を怠けても太らないではないか。これさえあれば体重管理なんて簡単だ。 取扱い説明書によると、この光の玉は触れた人間の生気を奪い取り、一時的な栄養失調にさせるものだという。 なんて便利なものがあるんだろう。 それから加奈子は毎日のようにたらふく食べた。 今まで抑えてきた食欲を発散させるように食べに食べた。 体重が増加する度にあの光に触れ、体重を減らしていったが、次第に光が彼女の生気を奪うよりも、彼女の体重の増加のほうが勢いを増して追いつかなくなっていった。 一ヶ月が過ぎるころには加奈子の食欲が上まって、あの光の玉一つだけでは加奈子の体重を消化できなくなってしまっていた。 そして加奈子は再び魔女に会うために、高層マンションへとやってきていた。 「魔女さん! もっとあの光の玉を私に下さい。あれ一つじゃ全然足りません!」 そう言う加奈子に呆れたような視線を向け、黒衣の魔女はため息をついた。 「あれで足りないなんてどういうことなのかしらね。早苗って子でも一つで事足りたのに。貴女は本当に豚みたいな女ね。いや、そう言っちゃ豚に失礼だわ」 「酷い!」 魔女の心無い言葉に傷ついたが、魔女の言うとおり加奈子の体重はここに来る前よりもむしろ増えてしまっているように見える。 「金払いのいい貴女に力を貸してあげたいのはやまやまだけれど、生憎とアレはもう品切れなのよね。入手するのも相当苦労したし、再入荷の予定は無いわ」 「そ、そんなぁ……」 加奈子は絶望してその場に崩れ落ちる。一つだけじゃもはや加奈子の暴食を抑えることはできなくなってしまっていた。もう前のような食生活に戻ることも難しく、さらに食欲はエスカレートしていくだけだろう。 太る。 また太ってしまう。 そんなのは嫌だ、絶対に嫌だ。 せっかく綺麗になれるチャンスなんだ。 私の将来のため、モデルになるためにアレは必要なんだ。 加奈子は一度手に入れた物を手放したくなかった。アレさえあれば自分は一生体重に悩まされることはない。 「そうね……たった一つだけ、アレを増やす方法があるわ」 「え? ほんとですか? 教えてください!」 食い付く加奈子にふっと魔女は試すような目を向け、その唇を彼女の耳元へと近づける。そしてある一つの方法を彼女に告げた。 「そ、そんなこと……」 その方法に唖然としながら、加奈子は魔女の言葉を反芻する。 「言っておくけれど、お勧めはしないわ。あとは自己責任で頼むわよ。あたしに迷惑かけないで頂戴ね」 魔女はそう言い加えて、加奈子を帰した。 その後、加奈子はマンションの自動ドアをくぐり、携帯電話を取り出す。 数秒間戸惑った後、加奈子はとある人物に電話をかけた。 「あ、もしもし早苗? あのね、同じ悩みを共有する同士、少しだけ話したいことがあるの。私のアパートまで来てくれる? 場所は――」 ※ ※ ※ 「ユキ姉、新聞受けに新聞溜まり過ぎじゃないか」 夏目《なつめ》中也《ちゅうや》は高層マンションで一人暮らしをしている姉の雪緒《ゆきお》の所へ、掃除をするために定期的にやってきていた。 自炊能力の無い雪緒を放っておくと、せっかくいい部屋に住んでいてもすぐにゴミ屋敷になってしまうからだ。 中也は取り出した今朝の双葉区新聞をなにげなく広げてみた。目に留まった小さな記事にはこう書かれている。 『双葉学園の生徒二名死亡。昨日の正午過ぎ○×アパートの一室で双葉学園の女子生徒KとSが死亡しているのが発見された。Sは死後数日経っており、遺体は腐ってしまっていて死因の断定が難しく、Kはミイラ化した状態であった。第一発見者の管理人は部屋を開けた時には数千匹の蛍が部屋に浮かんでいたと証言していたが、警察が到着する頃には何も残ってはいなかった』 くだらない記事ばかりだなと中也は新聞を投げ捨て、煙草をくゆらせながらアニメを視聴している雪緒に、気になっていたことを尋ねてみる。 「そう言えばユキ姉。この間ラルヴァを二匹手に入れたって言ってたよね。小瓶の中に封じ込めたって。それって何のラルヴァ?」 雪緒は煙草の煙を大きく吐き出し、こう言った。 「死出蛍よ」 おわり 怪物記第一話に出てきたラルヴァをお借りしました。 ありがとうございました。 トップに戻る 作品保管庫に戻る トップに戻る 作品保管庫に戻る